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日本人の血を引く3国籍者が表彰台を独占 ・ ヘルシンキ五輪1500m自由形競泳・岡本哲夫「大和魂見せようと泳いだ」

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リオ五輪まであと2カ月に迫った――かつてオリンピックを舞台に、日本人の血を引く3国籍者によって表彰台が独占された歴史があることを知っているだろうか。1952年のヘルシンキ五輪の1500m自由形の表彰台には、1位にハワイ出身の日系アメリカ人の紺野フォード、2位に日本の橋爪四郎、3位に日系ブラジル人の岡本哲夫が立った。ブラジルにおいて岡本は、水泳界に初めてのメダルをもたらした英雄であるばかりでなく、日系社会にとっても初でもあった。世界中の日系人にとっても五輪のたびに思い出していい逸話ではないだろうか。

岡本哲夫(~07年10月没)は1932年にマリリア市で生まれた二世。父専太郎は北海道、母ツヨカは福岡県の出身だ。サンパウロ市からは北西に440キロほど離れ、パウリスタ延長鉄道の中でも最も栄えた都市の一つだ。戦争前後には日本移民数千家族がその近郊で農業をしており、サンパウロ州奥地でも特に日本人の姿が目立つところだった。

哲夫の出生届け番号は町で36番というから、町の歴史そのもの。哲夫が泳ぎ始めたのは7歳のころというので、ちょうど太平洋戦争開戦直前の1940年頃だ。

2004年8月14日付のニッケイ新聞

パウリスタ新聞1952年9月18日付によれば、戸崎新蔵と山崎用一が1940年10月8日に私費で自分の農園の中に「日本人プール」を竣工した。長さ25メートル、幅12メートルだった。工事費用は30コントの予定が50コントもかかったという。当時、プールを持っている日本人は極めて珍しかった。

小児ぜんそくだった哲夫は、親の薦めで身体を鍛えるために水泳をここで始めた。ニッケイ新聞04年8月14日付で岡本は、「タイル張りのプールなど田舎にはなく、小川をせき止めて造ったもので、カエルがよく泳いでいた。泳ぎ出すとすぐに濁ってしまい、目を開けても水中ではなにも見えなかった」と最初の頃のことを語っている。


日本移民受難の時代に曙光もたらす

岡本が10歳前後を過ごした戦争前後は、ブラジル日本移民にとって受難の時代だった。

1937年から本格化したゼッツリオ・バルガス独裁政権のよるナショナリスム政策により、翌38年には10歳以下の児童への外国語教育の禁止、同年末には日・独・伊の外国語学校が全て閉鎖させられ、41年7月には全邦字紙が廃刊となった。将来への希望(子供への日本語教育)と目と耳(日本語情報)をほぼ同時に奪われた形だ。

1942年1月、リオで行われた米国主導の汎米外相会議で、アルゼンチンをのぞく南米10カ国が対枢軸国経済断交を決議し、ブラジル政府も同29日に枢軸国との国交断絶を宣言した。

サンパウロ州保安局は「敵性国民」に対する取締令として、「自国語で書かれたものの頒布禁止」「公衆の場での自国語の使用禁止」「保安局発給の通行許可証なしの移動禁止」「保安局に予告なしの転居禁止」などの制限を日本移民に厳しく課した。

「日本人プール」は竣工こそしたものの書類に不備があり、開場早々に使用禁止を言い渡された。急きょ、サンパウロ市に出向いてサンパウロ州体育局長にお伺いを立てた。

すると、意外にも《親切に手続きを教えられ、戦争中も一時閉鎖を命じられたが、これもパジリア氏からのやつてよろしいという許可証でパッサ(註=通過)した。「パジリア局長が世界の岡本哲夫を作った」ということにもなる》(同紙)。「敵性国民」に対する異例の扱いで、岡本は水泳を続けることができたわけだ。

終戦直後、1946年3月から「勝ち負け抗争」が起き、日系社会は未曽有の混乱に陥った。

41年に日本語新聞がなくなってから、短波放送「東京ラジオ」の大本営発表だけを頼りにしていた日本移民にとって、ブラジル一般紙の内容は「米国の謀略報道」だと頭から刷り込まれていた。

だから、日本が無条件降伏したという事実を信じたくない「勝ち組」と、早々に敗戦を認めた「負け組」に分かれ、日本人同志がブラジルで20人以上も殺し合うコミュニティ内の危機に直面した。46年4月から7月をピークに、翌47年初めまで殺傷沙汰が続いた。

しかし46年末から邦字紙が発行されるようになり、事態は収拾に向かったが、この後も10年近く分裂は続いた。

そんな抗争の余韻が色濃く残る1948年、まだ16歳だった哲夫はウルグアイで開かれた南米大会に出場した。

「初陣の水泳会や首府の夜」(雪村)――父専太郎は、そんな句を詠んで喜んだ。


「フジヤマの飛魚」が変えた岡本の運命

1950年3月、岡本の人生を変える出来事が起きた。戦後日伯交流の先駆けとなった水泳選手団一行が3月4日に来伯したのだ。遊佐正憲監督、村山修一(主将)、「フジヤマのトビ魚」こと古橋廣之進、橋爪四郎、浜口喜博ら一行だ。この橋爪とのちに五輪を舞台に対決することになろうとは、当時の岡本は夢にも思わなかったに違いない。

すでにブラジル代表になっていた岡本は2カ月間、この日本選手団と共にサンパウロ市、マリリア市、パラナ州ロンドリーナ市など日系人が多く住んでいる都市で開かれた親善大会に参加した。岡本はその世界最速の泳ぎに大いに感激した。

敗戦国だった日本は1948年のロンドン五輪に参加できなかった。しかし1949年6月に日本の国際水泳連盟復帰が認められるやいなや、古橋や橋爪四郎ら6選手は、ロサンゼルスで8月にあった全米選手権に招待参加し、400m自由形800m自由形、1500m自由形で「世界新記録」を樹立した。

サンフランシスコ講和条約締結前だったため、日本国内に米ドルがなく、日本水連幹部や在米日系人からの寄付でようやく実現できた大記録だった。当時、現地の新聞では「フジヤマの飛魚」と呼び讃えたことから、日本国民を大いに勇気づけた。

その翌年、米国大会に参加した帰路、ブラジルのスポーツ省の招待で南米遠征したのだった。まさに絶頂期の〃飛魚〃たちだった。これを機に、全伯水泳選手大会がサンパウロ市パカエンブー・プールで開催され、古橋選手は400m自由形で南米新記録を樹立するなど偉業を残した。

この時、州統領の特別の計らいで、虐げ続けられ続けた日本移民に大きなプレゼントがあった。国交断絶以来8年ぶりに日の丸が公の場所にはためいたのだ。辛い戦中を送った日本移民の心を大いに慰め、力づけた。

『パウリスタ新聞に見るコロニア30年の歩み』(1977年)16頁にある古橋ら訪伯水泳団の記事

この時、岡本は日本選手団から「いい成績を出したかったら、もっと練習量を増やさないとダメだ」とのアドバイスを受けた。それまでは1日に1千mしか練習していなかったが、毎日1万m泳ぐようにアドバイスされ、その後、その言葉を忠実に守った(前出のニッケイ新聞)。

フォーリャ・デ・サンパウロ紙07年10月3日付の岡本の訃報記事には「当時は温水プールがないので寒さと闘い、塩素で目が真っ赤にしながら、毎日1万mのノルマをこなした。狂信的といえるほどだった」と書かれている。それが彼の人生を変えた。

日本からわざわざ水泳選手団が来ても、祖国の敗戦を信じられない勝ち組がまだ大勢いた時代だった。そんな1950年11月、マリリア市の警察は、勝ち組を騙して帰国費用を巻き上げる詐欺団「国民前衛隊」一味50人を逮捕するなど、同市には勝ち負け抗争の余韻が強く残る暗い時代だった。


特訓で頭角現し英雄に

岡本の特訓の成果はすぐに表れた。51年にアルゼンチンのブエノスアイレスで開かれた汎アメリカン大会の400mと1500m自由形で優勝した。彼は汎アメリカン大会で初めて優勝したブラジル人となった。

当時ブラジルは、1950年の初の自国開催のサッカーW杯で、決勝戦でウルグアイに惜敗したショックから立ち直っていなかった。マリリア市は市の祝日を宣言して、岡本をオープンカーに乗せて町を凱旋パレードさせると、市民は熱狂して歓迎した。ところが、そのパレードの最中、岡本の自宅には泥棒が入り、金品を盗まれるというブラジルらしいオマケのエピソードまでついた。

喜んだマリリアの日系社会は自動車を一台、岡本にお祝いで贈呈しようとしたが、彼は断った。「五輪選手はアマチュアでなければならない。賞品と間違われる可能性のあるものを貰うと、アマチュア資格を失う」と考えたからだ。

現在のようにプロ選手が参加する時代とは大きく違っていた。

1952年9月6日付のパウリスタ新聞。凱旋した岡本選手はサンパウロ州知事を表敬訪問し、アブラッソ(抱擁)された

1952年のヘルシンキ五輪では、1500m自由形競泳の表彰台には、1位にハワイ出身の日系アメリカ人の紺野フォード、2位に日本の橋爪四郎、3位に日系ブラジル人の岡本哲夫が並ぶ光景が見られた。

前出のニッケイ新聞によれば、1500mの最後のターンの時、苦しくて卒倒しそうだったが、「お前はサムライの子孫だ。大和魂を見せてから死ね」という父親の声が聞こえ、もう死んでもいいと無我夢中で泳いたという。時代を感じさせるコメントだ。岡本は3位入賞を知らされた時、嬉しさのあまり頭が真っ白になり、涙を流していたという。

つい2年前の1950年にブラジル中を沸かせた来伯団の一人、橋爪と争って表彰台に立った岡本の胸中には、さぞや感慨深いものがあったに違いない。

紺野フォードは1933年にハワイ州で生まれ、ホノルルのマッキンリーハイスクール、オハイオ州立大学でも競泳選手として活躍した。1952年のヘルシンキでは金メダル二つと銀一つの計三つ、次のメルボルン五輪(56年)でも銀一つを獲得した米国競泳界のヒーローだった。

ところが、肝心の「フジヤマの飛魚」古橋廣之進は南米遠征中にアメーバ赤痢に罹患し発症していたことが響き、このヘルシンキ本番では400m自由形8位に終わった。数々の世界新記録を樹立しながらも、生涯、五輪メダルを一つも獲得できなかった。

岡本が07年10月2日に亡くなった時、競泳スポーツブラジル連合(CBDA)は死を惜しみ、「3日間の服喪」を宣言した。

 

© 2016 Masayuki Fukasawa

1950年代 アスリート 運動競技 ブラジル フィンランド フォード・コンノ 世代 ヘルシンキ 古橋廣之進 勝ち組 負け組 メダル 二世 オリンピック スポーツ 水泳 岡本哲夫
執筆者について

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。2022年からブラジル日報編集長。

(2022年1月 更新)

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