日本からの航路ができ、いわば移民の玄関口となったシアトルやタコマという都市を抱えるワシントン州。当然日本人、日系人の歴史は古い。
「米國日系人百年史」では、42ページを割いてワシントン州の日系人を紹介している。まず概説からはじまり、「日本人発展経路」と題して、ワシントン州からはじまった日本人の活動の経緯を説明する。
つづいて、第一節「戦前の日本人状態」を産業、教育、団体、排日問題などの点から解説している。シアトル、タコマほか州内の各地方に分散している日本人の活動についてもふれている。
以下、その内容で気になるところを要約して紹介したい。
シアトル、タコマに日本からの定期航路が
1880年の米国国勢調査では、全米で中国人が10万5465人だったのに対して、日本人はわずか150人。カリフォルニアには86人で、ワシントン州では1人だけだった。
しかし中国人は1882年の中国人排斥法などによって追われた。同州内の中国人をシアトルに連れてきて、船で中国へ放逐されようとしたこともあった。一方、日本人は好感をもって迎えられ、各種の労働に従事できた。
1896年8月31日、日本郵船がシアトルに航路を開き、また、1909年には大阪商船がタコマ航路を開き、そこから日本人の移住者が増加していった。
ワシントン州での日本人労働者は、初めは鉄道工事、製材所、家内労働などだったが、その後、農園、製材、鮭缶詰の仕事に転じていった。また、商売としては、レストラン業、グロッサリー業などからはじまり、1900年以降は、理髪業、洗濯業、飲食店、旅館業が多かった。
農業は、農園労働から借地農業に転じていき発展していったが、ワシントン州が1921年に「外国人土地所有及借地権制限法」を制定した結果、大きな影響を受けた。とくに酪農は全滅し、戦後も従事する者は皆無だった。ただ農業経営自体は、戦後次第に土地を所有して基礎を築いてきた。
国勢調査によれば、ワシントン州の日系人人口は、1900年に3617人で、1930年は1万7873人。1950年は9694人に減ったが、1960年には1万6652人と復活した。
細かい職業別に日本人を調べる
「戦前の日本人状態」に、中心都市シアトルに在留する日本人の職業および人口統計がでている。1935年度の調査は、数十種類におよぶ職業とそれに従事する人数を記している。百年史では、他州の日系人についても同様の記載がある。細かな調査が行われていたと想像できる。
このなかには以下のようなユニークなものもある。
「麻袋商1」「活動写真技師1」「牛乳商3」「柔道教師2」「助産婦6」「書籍店2」「新聞記者20」「蕎麦屋2」「釣道具店3」「豆腐製造業3」「木表具師1」「手袋女工60」「糀屋2」。
これはごく一部で、日本人が生活していく上での衣食住に関わるさまざまな職業が分類されている。日本の生活様式がそのまま持ち込まれて、大きなコミュニティーが形成されていることがわかる。この人数の合計は2877人となっている。
当然、日本人のための学校もできていった。1902年シアトルに国語学校が、その5年後にはタコマにも設立、さらに各地に設立された。ワシントン州内で在留日本人が設立した日本語学校は1940年ごろには21校に達した。
新聞をはじめとした日本語の刊行物も盛んに出された。日刊の邦字新聞では北米時事、大北日報がある。週刊では大衆、ジャパニーズ・アメリカン・コリア(英文)、月刊では日米公論があった。邦字新聞は長年日本語だけだったのが、二世が成長して、その数が増加するなかで、英字の紙面も設けるようになった。
排日への激しい反発の論調
戦前の状況のなかで、日本人への敵対的な動きを「華州排日の変遷」として整理している。白人社会からの迫害はひとり日本人だけにはとどまらないとしながらも、百年史は激しく批判している。
シアトルでは、労働者の排斥は、製材所で働く日本人に対して最も激しかった。これが各方面に広がった。
「労働者排斥は各方面に影響し、日本人営業と同種営業に従事する者が、其競争者である日本人営業者を排斥するに至り、農業、洋食店、洗濯業、ホテル、グロサリー、理髪業等の発展が著しかった為、米人同業者の排斥運動が起り、1920年シヤトル市は市令を以ってホテル、古物商、球場、マーケット営業に対し残酷峻厳な取締りをなし、州は1921年排日土地法を制定して日本人農家を排斥した。」とある。
戦前については、シアトル、タコマのほか、州内の「ファイフ地方」、「サムナー地方」、「オーバン地方」についても触れている。
(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)
* 次回は、「ワシントン州の日系人~その2」です。
© 2015 Ryusuke Kawai