第13回 ワシントン州の日系人~その1を読む >>
戦後のシアトルと日系人
戦後のワシントン州の日系人の活動について、「百年史」はわずか3ページだが力を込めて書いている。とくにシアトルの日本人、日系人の復興についてホテル業など戦前の事業の復活や新規事業を立ち上げて勢いづくありさまがわかる。それらをまとめると――
かつて日系人の商業区域だったが、戦時中は黒人が集まっていた「メーン街と南六街角」は、戦後は日系人によって買収されていき、再び日系人の領域となり、さらに、その範囲は周囲に広がっていった。
帰還してきた日系人は1947年末までに4,700人だったのが、翌48年末には、約5,500人に増加し、もう少しで戦前の数に戻るところだった。
就職面における一世から二世への世代交代や女性が働くようになったことが新たな動きとしてみられた。日系人の職業は、広範囲にわたっていくが、そのなかで特に戦前に見られなかった仕事としては、一世についてはポーターやジャニターの仕事で、二世はオフィスワークだった。
ホテルやアパート業への進出
シアトルの日系人の企業発展としては、ホテルなど建物を買収しての事業化について記している。
「殊に他州に類例のない企業面に於けるシヤトル日系人の根強き進展は、次代日系人の発展上に於ける万代不易の基礎となるであろう。先ず其の第一を掲挙すれば帰還後の一世達が、相争ってホテル、アパート、又は商館等の堂々たる建物を数万、或は十数万弗を投出して購入し、従来の如きリース権に依る事業の経営より百尺竿頭一歩を進めた事である。
一九四七年の暮頃までに於ける日系人のアパート、ホテル、ルーミングハウス等への進出は約二百軒を突破する大躍進ぶりで、皆な何れもリースより所有権獲得に拍車をかけて居る情勢にあったから、今後数年を出ずして建築所有者の数も画期的な数字を示すであろうと思われる」
名士として紹介されているなかに、こうしたホテルなどの事業を立ち上げてきた人たちも、多数いる。
モリソンホテルを経営する児玉浪次氏はその一人だ。広島県山県郡加計町出身の児玉氏は、先に渡米していた父に呼び寄せられ1906年にポートランドに上陸、鉄道労働に従事したのちシアトルに移り、早くもホテル経営をはじめ、一時農産市場で仲買商を営み、1937年にアパート業に移った。
戦時中はアイダホ州のミニドカ収容所に入り、戦後シアトルに戻るとホテル経営をはじめ、60年当時はモリソンホテルを経営していた。
「市の中心地にあり二五〇室、内電話、浴室付百二十五室、最新式エレベーター及び大グラージ付という、名実共に市の一流ホテルとして、日米往復の人々に親しまれている」
アラスカの大人物
貿易業で成功した川部惣太郎氏は、アラスカでのさまざまな事業を手掛けたことで、「アラスカの大人物」として紹介されている。
滋賀県米原町出身の川部氏は16歳で勉学を志してシアトルに来た。その後アラスカの将来性に着眼して、現地へ渡り「白人相手の湯屋と玉場」を経営するなどし、のちに「スチーム洗濯所を購入し鉄道ブームを見越して開業した。排日運動のなかで新聞で書かれたりしたがそれが宣伝効果を生み成功。
戦時中は敵国人として抑留され、アメリカ本土へ送られる。シアトルにおちついてアパート業をはじめ1948年にはHS川部商会を創立。日本の美術品を輸入して販売するなどして成功した。また、1960年のワシントン州外人土地撤廃を支援するなど、邦人社会にも大きく貢献したことが認められた。
愛媛県八幡浜市出身の窪田ヘンリー竹光氏は、ホテル業からはじめて成功した。戦後は実業家として他の分野に進出、1956年には邦字新聞の北米報知社の社長に就任、新聞社を盛り立て、ジャーナリズムの世界にも貢献した。
ジョン・オカダの父の名も
パシフィックホテルを経営する岡田善登氏は1894年広島県安佐郡可部町出身、1908年に先に渡米していた父に呼ばれ渡米。モンタナ州で鉄道労働、シアトルで古屋商店員として働くなどして1920年にホテル業をはじめた。
日米開戦時にはモンタナのミゾラ収容所に入りその後ミネドカ収容所に移った。1945年にシアトルに戻りパシフィックホテルを経営。50年に孝代夫人を病気で亡くした。4男2女がいる。
ところで、岡田氏についての百年史での紹介は、家族を日本名で書いている。例えば、次男は幸三。百年史では触れていないが、この幸三のアメリカ名はジョンであり、ジョン・オカダは、いまでもアメリカで読み継がれている戦争直後の日系人のアイデンティティの問題などをあつかった小説「ノーノー・ボーイ」の作者である。
(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。また、地名については「百年史」にある表し方を基本としました。)
* 次回は、「ワイオミング州の日系人」です。
© 2015 Ryusuke Kawai