ディスカバー・ニッケイ

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戦後ロサンゼルスに戻る

戦争が終わった後、父はロサンゼルスに戻りたがっていました。父は一人で戻ってきて、様子を見ようかなどと考えていました。しかし、母はダメだと言いました。それで私たちは全員戻ってきて、イーストロサンゼルスの古い友人たちの隣に住むことになりました。2階建てのアパートでした。

そして、先ほども言ったように、私の母は昔からビジネスの才能がありました。それで両親はビジネスを探し、ドライクリーニング店を経営している日本人夫婦を見つけました。彼らはドライクリーニングについて何も知らなかったにもかかわらず、そのドライクリーニング店を買い取りました。その店は東ロサンゼルスの5番街とインディアナ通りにあり、私たちはそこからスタートしたのです。

そして父は、服のアイロンがけなどを学びました。母は、さまざまな生地のクリーニングなどについて多くを学びました。私の仕事は、クライアントやお客様のニーズをすべて書き留め、パンツを掛けられるようにハンガーに小さな紙製の保護カバーをかけることでした。

そして、ドライクリーニング店の裏に小さな部屋があって、そこを第二の家のようにしていました。そこで料理をして食事をしていました。そして、私が昼寝をしたり、そういうことをするための小さな場所もありました。


カリフォルニア州 ドライクリーニング イースト・ロサンゼルス ロサンゼルス アメリカ合衆国

日付: 2022年5月13日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: エヴァン・コダニ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

坂田玲子さんは、1939年に生後5か月でロサンゼルスの孤児院から一世の両親に養子として引き取られました。投獄を避けるため、家族は他の日本人とともに1948年までユタ州ソルトレイクシティに移住しました。ロサンゼルスに戻った坂田さんの両親は、彼女が育ったイーストロサンゼルスでコインランドリーを経営しました。数年後、坂田さんと両親はトーランスに引っ越しました。坂田さんはトーランス高校を卒業し、カリフォルニア大学バークレー校に進学しました。結婚後、坂田さんは夫とともにオハイオ州ケント州立大学に移り、「ケント州立大学銃乱射事件」を目撃しました。坂田さんはノースカロライナ大学でビジネス開発の博士号を取得し、組織開発とビジネスの教員を務めました。坂田さんは両親が亡くなる前に南カリフォルニアに戻り、両親の手伝いをしました。坂田さんは定年退職前、32年間にわたりさまざまな業界や分野で起業家やビジネスウーマンとして活躍しました。現在はカリフォルニア州モンロビアに住んでいます。 (2023年5月)

モニカ・小木曽

日系アルゼンチン人の職(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

A. ウォーレス・タシマ

少年にとっての収容所(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)