ディスカバー・ニッケイ

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オハイオ州ケント州立大学銃撃事件

私の夫は教員でした。そして、その日は彼と学生部長が昼食に出かけました。そして、彼らは学生たちと州兵が行ったり来たりしているのをしばらく見ていましたが、何も起きないだろうと考えたのです。

それで彼らは昼食を食べに行きましたが、その後、地獄が始まりました。なぜなら、衛兵が子供たちに発砲し、撃ったからです。それで彼らは外へ出て様子を見ましたが、なんと、学生部長が電話ボックスに走って行って電話をかけていました。そして夫はオフィスに戻りました。

私は昼食のために子供たちを家に連れて帰り、学校にも連れて帰りました。そして、何か起こっていると聞きました。そこで、その騒ぎが起こっている場所に一番近い駐車場に行きました。そして子供たちを降ろしました。しかし、私は何が起こるかを見るためにその駐車場に留まりました。何か起こったら、子供たちを迎えに行き、家に連れて帰ろうと思っていました。しかし、私が聞いたのは、ラジオを聞いていると、そこで何か問題が発生しているという話だけでした。

それから、保安官の車がサイレンを鳴らしながら角を曲がっていくのが見えましたが、他のすべては静かでした。それで、まあ、大丈夫かもしれないと思いました。それで家に帰りました。それから間もなく、近所の人の一人が私の子供たちを家に連れてきて降ろし、大学が閉鎖されるとか何とか言ってきました。それで、大学の授業は閉鎖されました。州兵が来て、戦車も配備されました。つまり、それはやりすぎでした。

学期を終えるため、というのは確か 5 月に起こったことだったと思いますが、夫は博士課程の学生を何人も抱えていました。それで彼らは私たちの家に集まり、四半期または学期を終えることができました。そして、そのことが落ち着くまでにはしばらく時間がかかりました。


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日付: 2022年5月13日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: エヴァン・コダニ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

坂田玲子さんは、1939年に生後5か月でロサンゼルスの孤児院から一世の両親に養子として引き取られました。投獄を避けるため、家族は他の日本人とともに1948年までユタ州ソルトレイクシティに移住しました。ロサンゼルスに戻った坂田さんの両親は、彼女が育ったイーストロサンゼルスでコインランドリーを経営しました。数年後、坂田さんと両親はトーランスに引っ越しました。坂田さんはトーランス高校を卒業し、カリフォルニア大学バークレー校に進学しました。結婚後、坂田さんは夫とともにオハイオ州ケント州立大学に移り、「ケント州立大学銃乱射事件」を目撃しました。坂田さんはノースカロライナ大学でビジネス開発の博士号を取得し、組織開発とビジネスの教員を務めました。坂田さんは両親が亡くなる前に南カリフォルニアに戻り、両親の手伝いをしました。坂田さんは定年退職前、32年間にわたりさまざまな業界や分野で起業家やビジネスウーマンとして活躍しました。現在はカリフォルニア州モンロビアに住んでいます。 (2023年5月)