
チャンダ・イシサカさんは、カリフォルニア州ロサンゼルス郡のモントレーパークで生まれ育ちました。彼女は日系アメリカ人四世であり、メキシコ系アメリカ人でもあります。イシサカさんは、6年間シアトルに住み、日系コミュニティに喜んで参加し、ミニドカ巡礼企画委員会の一員として年に一度、第二次世界大戦時の強制収容所であるアイダホ州ミニドカ収容所への巡礼を実施してきました。イシサカさんは、現在カリフォルニア州オレンジ郡在住です。
(2014年11月 更新)
この執筆者によるストーリー

母と再会した経緯
2015年10月15日 • チャンダ・イシサカ
日系家族というこの日記のテーマについて考えたとき、私は自分の家族がいかに私を形作ってきたか、しかし、私自身が日本人コミュニティーに関わっているときに、家族をほとんど含めていないことに気付きました。さらに、メキシコ人の母を日本人コミュニティーにどれだけ含めてきたでしょうか。昨年、私はジレンマに陥りました。母がシアトルに私を訪ねてくる予定だったのですが、私は実際はアイダホへ出発しなければなりませんでした。私の組織であるミニドカ巡礼計画委員会は、毎年恒例の巡礼旅行を企画しており、…

千代の子
2014年11月24日 • チャンダ・イシサカ
私のミドルネームにまつわるストーリーは、幼い頃の私のプライドとプレッシャーとなっていました。チヨコという私のミドルネームは、父の母である私の祖母、千代子からつけられました。私が生まれる前、祖母は胃がんと闘っていました。私が生まれるまで生きようと努力しましたが、生まれる2、3ヶ月前、祖母は亡くなりました。両親は私に、家族がどんなに祖母の死を悲しみ、そして私が再び家族に幸せをもたらしたと話してくれました。両親の大好きな、私が赤ん坊だった頃の思い出は、私を連れて祖父の家に行き、祖…

ミニドカ巡礼と伝統の継承
2014年3月25日 • チャンダ・イシサカ
今日、私の友人であり、ミニドカ巡礼計画委員会の仲間であったフランクが亡くなったという知らせを受けました。フランクは第二次世界大戦中、家族がベインブリッジ島を離れ、カリフォルニア州のマンザナー戦争収容所に行くよう命じられ、その後アイダホ州のミニドカと呼ばれる収容所に送られたとき、まだ 2 歳でした。私にとってフランクは年長者であり、尊敬し、指導と知恵を求めていた人でした。彼が亡くなったことで、ミニドカ巡礼計画委員会が私にとって長年に渡ってどのような意味を持っていたかを振り返ら…

怒れるハパ少女の柔道ダイアリー
2013年11月13日 • チャンダ・イシサカ
私は、初めから柔道家になることを目指していたわけではありませんでした。私の計画は、学校の勉強に集中し、良い成績をとることでした。転機は、弟が5歳になった時、父が弟に柔道を勧めたことでした。私は弟に嫉妬し、自分も一緒に柔道を始めてもいいか、父に聞きました。父は、始めてもいいが黒帯をとるまで辞めないことが条件だ、と言いました。父が柔道の先生だったことは、この辺で触れておくべきでしょう。父は、一家から脱落者が出ることを許しませんでした。私は二つ返事でこの条件を飲み、柔道を始めまし…

ブラックヌードル
2012年10月3日 • チャンダ・イシサカ
今日の夕食にそばを作りました。そばはそば粉で作る日本の麺です。私にとってそばの思い出は、カリフォルニア州モントレーパークの Oki's という、今はもう閉店してしまった私が育ったレストランで、おばあちゃんと一緒に食べたことです。ある日、私は叔母二人と一緒に沖の家に行ったとき、確か6歳くらいだったと思います。私は叔母たちに蕎麦が食べたいと説明しようとしていました。当時は、それが何と呼ばれているのか知りませんでした。自分が食べたものの日本語も知りませんでした。今でも、いなりを「…
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