2026年2月の完成目指す
第二次世界大戦中に多くの日本人移民や日系人が全米の強制収容所に送り込まれたのは、広く知られた史実だ。しかし、収容所ごとの慰霊碑はあっても、10カ所の収容所に収容された14万人の名前を残したモニュメントがいまだに存在しないということを、私は今回の「キャンプウォール」の取材を通して初めて知った。
収容所別に収容者の名前を刻む10の壁を建立する「キャンプウォール」は、カリフォルニア州トーランス市にあるコロンビア・パークに建設されることが決定している。2010年代後半に、カンジ・サハラさんを中心にWWII Camp Wall委員会が発足、2023年4月に、トーランス市は彼らが提案したコロンビア・パークをキャンプウォールの建設地として承認した。その後、カリフォルニア州議会唯一の日系人議員であるアル・ムラツチ加州下院議員が州に働きかけ、500万ドルの資金獲得に成功。2024年8月現在、同プロジェクトは、同碑の2026年2月の完成を目指して前へと進んでいる。
2024年3月の某日、ムラツチ議員夫人の樋口博子さんの紹介で、私はトーランス市内で同碑発案者であるカンジ・サハラさんと委員会プレジデントのナンシー・ハヤタさんから話を聞くことができた。カンジさんは、1934年広島で生まれ、ロサンゼルスの中心地近くで育った。
「私の家族が最初に送り込まれたのは、サンタアニタのアセンブリセンターです。今もあるサンタアニタ競馬場の施設を利用していたんですね。そこに1万8000人の日系人が集められました。サンタアニタに向かうキャラバン(車の一団)の出発地は(ロサンゼルスの)セントメリーズ教会でした。父は仕事で使っていた車に私たちを乗せ、自分で運転して向かいました。
収容所でその車はどうなったか? 物資購入に充てるお金に替えました。その時、私はどういう思いだったかと言うと、近所の人も皆、同じ場所に向かったので皆でどこかに行くんだっていう気持ちしかなかったですね。複雑な思いを抱くにはあまりにも幼過ぎたのです」。
発案者の強制収容の記憶
サンタアニタの次は、遠方のアーカンソー州にあるジェローム強制収容所へ、さらに同州内にあるローワー強制収容所へと移り、そこでカンジさん一家は終戦を迎えた。家も財産も奪われて強制収容されたのに、戦争が終わると今度は追い立てられるようにすぐに収容所を出て行けと命令されたのだとカンジさんは振り返る。しかし、彼らが向かったのは住み慣れたロサンゼルスではなくイリノイ州のシカゴだった。
「カリフォルニアに戻らなかった理由は、(カリフォルニアでは)日本人移民には制限が課せられていて差別が残っていたからです。当時、カリフォルニアでは日本人移民は不動産が購入できませんでした。でもシカゴでは誰でも購入する権利があったし、ヨーロッパからの移民と同様にアジアからの移民にも比較的差別がないと言われていました。それで家族全員でシカゴに移り、私は残りの小学校、中学、高校、大学もシカゴで終えました。そしてノースウエスタン大学の大学院で博士号を修め、宇宙工学のエンジニアになりました」。
エンジニアになってからカリフォルニアに戻ったカンジさんは、仕事に励む傍ら、民主党員として民主党クラブの活動に積極的に打ち込んだ。さらに、戦時中、日系人が一時的に収容された勾留施設であるTuna Canyon Detention Stationの収容経験者が中心となって活動している非営利組織のTuna Canyon Detention Station Coalition(以下ツナキャニオン)にも深く関わるようになった結果、彼はあるアイデアを人々に明かした。その時のことを教えてくれたのはナンシー・ハヤタさんだ。
「2019年頃だったと思いますが、ツナキャニオンの中で平和公園のアイデアが生まれました。ツナキャニオンのエリア内に平和を訴える公園を建設し、そこに木を植えたいということでした。そして、カンジが、その公園にツナキャニオンのセンターに収容された全員の名前を刻んだ壁を造るのはどうだろうと提案したのです。その最初のアイデアが大きく膨らみ、全米にあった日系人収容所ごとに、収容者全員の名前を刻む壁を造るというところまで発展しました。これがキャンプウォールの始まりでした。しかし、ツナキャニオンのエリアにそのような土地を確保することは非現実的だったため、いつしかこの話は立ち消えになりました。しかし、このビジョンはカンジの中で生き続けていました。そして、彼はこのキャンプウォールのアイデアとその重要性について、さまざまな集会で話し始めたのです」。
新リーダーの使命感
「キャンプウォール」の発案者であるカンジさんは、高齢であることから今はリーダーシップをナンシーさんに引き継いでいる。日系三世であるナンシーさんは強制収容所を経験していない。彼女が強制収容所について知ったのはいつだったのだろう?
「子どもの頃だったと記憶しています。たまに出かけるリトルトーキョーのファースト・ストリート沿いの店舗内に収容所時代の様子を撮影した写真が掲示されていて(筆者注:トーヨー・ミヤタケ・スタジオの可能性が高い)、それを窓越しに見たことを覚えています。そして、母は初めて会う日系人には『どこの収容所に行かれたの?』と聞いていました。その後、父は家族旅行に連れて行ってくれたのですが、訪ねた先は父が収容されていたトゥールレイクと母が過ごしたマンザナーでした。父は言葉にはしませんでしたが、私たちに歴史について知ってほしいと願っていたのだと思います。
また、収容所に関して母が言っていたのは、『私たちは幼かったから大変ではなかった。収容所でも踊っていたし、週末には映画を見ることもできた』と。おそらく大変な思いをしていたのは、彼らの親たち(ナンシーさんの祖父母)だったのではないでしょうか。子どもたちが少しでも快適に楽しく過ごせるように、親はどんなことでもしただろうと思うのです。
しかも、収容所を出た時、一人あたり持たされたのはたった25ドルだけ。それでどうやって生計を立てることができるでしょうか。それでも、私の親の世代の多くは、子どもたちを大学に行かせ、立派な教育を受けさせるために必死になって働いたのです。語られていないことは多いはずですが、少なくともあのような体験は繰り返されてはならないものです」。
いわば強制収容所二世であるナンシーさんだが、彼女が「キャンプウォール」に取り組む根っこには親から授けられた倫理観があるのだと語る。
「私のモチベーションは、幼い頃から両親に植え付けられた勤労の倫理観です。私は親に、『何かに取り組むならしっかりやり遂げなさい』と、そう教わりました。中途半端なことはせず、全力を尽くし、誇りに思えるものを作り上げるようにと」。
私がコロンビア・パークを視察した2024年4月、まだ「キャンプ・ウォール」建設は準備さえも始まっておらず、敷地には桜の花が咲いていた。
ムラツチ議員は「推進者としての私のゴールは、カンジがキャンプウォールのオープニングでリボンカットする姿を確認することなのです」と語っていた。時間は限られている。その日を少しでも早く現実のものにするためにも、同委員会では協力と寄付を呼びかけている。
© 2024 Keiko Fukuda