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第3回 日系ビジネスがこぞってラジオ放送参入

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三輪堂

1931年1月時点でKFQW局では隔週木曜日に中村時計店の「日本音曲放送」(第2期)が行われていたが、この番組のない週の同時間(午後7時半〜8時)にも日本音楽が流れてくるようになった。書籍、雑誌文房具、写真機械などを販売する三輪堂がスポンサーとなった番組である。これで毎週木曜日には、日本音楽がラジオで楽しめることになった。1930年には既に番組が開始されていたものと思われるが、同年の邦字紙が保存されていないため、いつから三輪堂の番組が始まったのかを特定することはできていない。

中村時計店の番組と同様に、筑前琵琶、落語、浪曲、長唄、小唄、童謡などのレコードを流すのが常であったが、生演奏も取り入れた。例えば、シアトルを訪問した口笛の名手アーネスト・ニッケルとシアトルの口笛界を代表する荒井よねによる口笛二重奏による「荒城の月」と「墓詣」、初音会の中谷福子師匠の端唄「流しの枝」と長唄「多摩川」、あるいはアメリカ各地を演奏旅行して薩摩琵琶(錦心流)の名手だった山口法水の「川中島」など、多彩な内容の生演奏が放送された。中村時計店の「日本音曲放送」(第2期)終了にあわせて、1931年5月7日が最終放送になったものと思われる。

三輪堂はその後に相模屋と合併して三輪堂相模屋商店となり、ビクター・コロンビア・ラジオ蓄音機やレコード特約の販売店となった。同店はソプラノ歌手の関屋敏子がシアトルを訪問したのをとらえ、単発番組として1931年10月9日にKJR局にて関屋の独唱放送を企画した。当夜のプログラムは 「浜歌」、「江戸子守唄」、「アイアイアイ」(スペイン語)、「夜の調べ」、「セビリアの理髪師」(イタリア語)等で、アナウンスは浅場金蔵が担当した。日本のレコードを取扱っている同店では、関屋のレコードを5枚以上買うと肉筆サインを進呈するなど、宣伝にも余念がなかった。

三輪堂さがみや番組広告(『大北日報』1931年10月9日)


古屋商店

シアトルで最も成功した商人の一人とされる古屋政次郎(山梨県出身)は、仕立て屋から始まり日米雑貨食料品を扱う古屋商店を開業。タコマ、ポートランド、バンクーバーや日本にまで支店を持つまでに至り、更には金融業にまで進出した。その古屋商店がスポンサーとなり、1931年4月29日の昭和天皇誕生日の午後8時からKXA局で天長節奉祝放送が行われた。

古屋商店番組広告 (『大北日報』1931年4月28日)

番組内容は日米の少年音楽隊による日米国歌斉唱、シアトル国語学校生徒唱歌隊の奉祝歌、山崎直道の奉祝の詞、田中仙八領事代理の講話、沖山栄繁(北米日本人会商業会議所会長)の万歳三唱で、北米日会書記や北米時事記者を歴任した中島勝治(梧街)がアナウンスを担当した。

一時期はとても羽振りの良かった古屋商店であるが、大恐慌に伴う不況の影響を受けて金融業でつまずいたことから、同年10月に廃業に追い込まれた。従って、同商店の日本語放送はこの年限りの単発で終わってしまった。

大北日報』

1910年からシアトルで編集・発行されていた邦字紙の『大北日報』がラジオ放送に乗り出した。これは「ワシントン、アイダホ、ユタ、オレゴン、モンタナ各地に散在する多数愛読者ならびに、我が同胞平素のご愛顧に報いんため計画したもの」(『大北日報』1933年10月9日号より)で、広いサービスエリアを持つKJR局で都合3回にわたり放送された。

(『大北日報』1934年2月3日)

第1回目の番組は1933年10月12日の午後7時45分から30分間放送された。当日の番組はワンダブレッド社および菊正宗の輸入元である高橋商会がスポンサーになり、テナー歌手の上出雅孝が出演するコンサートであった。上出は日本人協会牧師としてハワイに滞在し、その後テナー歌手、戦後には米国務省の嘱託通訳になった人物である。当日は「鉾をおさめて」をはじめとする日本音楽を中心とした選曲が行われた。「荒城の月」も歌って欲しいという電話も掛かってきたが、時間が押していることもあり、リクエストに応えることはできなかったという。アナウンスは大北日報外交員の高橋源太郎が担当した。

第2回目の放送は、1934年2月7日の午後8時から30分間放送された。この回も高橋商会がスポンサーとなった。大北日報狩野輝光(その後、北米時事入社)の挨拶に続き、木村憲司、斉藤竹粹、田中照治等シアトル在住の素人名人を集めて長唄、端唄、バイオリン独奏、越後獅子、三曲合奏の生演奏が流された。後日の『大北日報』には、各方面からの反響が大きかったことやモンタナ州テレサのリスナーから感謝状が届いたことが報じられた。

(『大北日報』1934年2月3日)

第3回目の放送は1934年9月27日の午後7時45分から15分間、日本歌曲放送として行われた。アナウンスはお馴染みの高橋源太郎が担当し、第1回に出演したテナーの上出雅孝が再度登場した。上出は第1回放送直後にコンサートや勉強のために日本に一時帰国し、日本滞在の成果を発揮すべく、「歌を通じて今の日本を一般同胞に感じて貰ひたい」(『大北日報』1934年9月25日号より)として、「よよこせ 秋田の子守唄」等日本の曲を歌った。

(『大北日報』1934年9月24日)

最終回では、日系二世のジェームス坂本が発行した日系アメリカ人クーリエによるラジオ番組と、その終了について取り上げる。

 

*本稿は、日本時間(Japan Hour)』(2020年)からの抜粋で、『北米報知』(2022年1月22日)からの転載です。

 

© 2022 Tetsuya Hirahara

コミュニケーション 日本のラジオ番組 戦前 ラジオ シアトル 社会学 遠隔通信 アメリカ合衆国 ワシントン州
このシリーズについて

シアトル地域でラジオ放送が始まったのは1921年。そんな中で、日本語番組や日本音楽番組などの日系ラジオ番組も放送されるようになった。北米で最初に日系ラジオ番組が定期放送されるようになったのはカリフォルニア州オークランドで1927年のこと。翌年1928年にはシアトルでも開始され、その後にサンフランシスコ、ロサンゼルス、サクラメント、バンクーバー、サンノゼ、エルセントロ、バイセリア、ワトソンビルと続いた。

1930年の米国国勢調査によれば、当時の日系人人口はワシントン州全体で1万7087人、シアトル市内で8134人。広告効果は限られているが、日系同胞に向けてスポンサーがついて、いくつかの番組が行われた。このシリーズでは、4回の連載をとおしてそうした番組を紹介する。

*本シリーズは、平原哲也氏の著書『日本時間(Japan Hour)』からの抜粋で、『北米報知』からの転載です。

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シリーズ「日本時間 ~日本語ラジオ放送史~」

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執筆者について

中学生の頃から外国の短波放送を受信する趣味を始める。ラジオ全般の歴史にも興味を持ち、近年は南北アメリカ大陸で放送されていた日系移民向けラジオ番組の歴史について調査している。2020年に北米大陸で戦前に行われていた番組を紹介する『日本時間(Japan Hour)』を自費出版。

(2022年 9月更新)

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