ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2022/9/19/wakaji-matsumoto-1/

第1回 若次の旅立ち

松本若次「セルフポートレイト」1928年

松本若次は日本からハワイへ、そしてカナダやアメリカ西海岸へと渡ってきた多くの若者たち(その多くが10代)と同じだった。1906年、17歳の時に初めてバンクーバーに降り立ち、その後、ほとんど面識のなかった父親をたずねて汽車でロサンゼルスに向かった。

1892年頃、若次の父若松と母ハルはハワイに移住することになり、幼かった若次は日本の親戚に預けられた。もともと若松は漁師を生業としていたが、自宅の隣で小さな畑も営んでいた。若松は、日本の新聞に掲載されていたハワイのパイナップル農場やサトウキビ農場の求人広告を目にして、農業への転向を決意し、応募した。長男でもない若松は、日本で家督を継ぐことがないため、妻とともにハワイの農場に集団就職することにしたのだ。

ハワイにいる間に、夫婦は新たに2人の子供を授かったが、若松は妻と子どもたちを日本に帰すことにした。成功を夢見る若松は、ハワイで重労働しても生活が好転する兆しがなかったので、アメリカ西海岸へ渡ることにしたのだ。最初はシアトルで暮らしていたが、1905年に故郷広島の気候に近いロサンゼルスへと移った。

若松は南カリフォルニアで2つの農場経営に成功する。1つは現在のメイウッドにあり、もう一つは現在のコマース地区ラグーナにあった。若松や若次のような移民一世は、「日本の農民階級の出身者がほとんど」であり、当然ながら、新しい土地でその技能を生かそうとした1

農作業は重労働であったので、子どもたちの助けを必要とした。若次のような息子たちはアメリカに住む父親を手伝うために日本から呼び寄せられ、これが日本人移民の増加に拍車をかけた2。ある資料によれば、カリフォルニア州の日本人移民は1910年の時点で4万1356人(7万2156人という説もある)で、10年で4倍に膨れ上がった3。リトル東京の日本人人口は1920年には2万人、1940年には3万7000人に達した4。1920年のカリフォルニア州政府の文書には、「日本人は価値ある移民とみなされ、誘致に努めた」と記されているが、こうした歓迎の姿勢は時間とともに変化していった5

19世紀末から20世紀初頭にかけ、日本は経済的に特に厳しい状況にあった。明治維新後、不安定な財政を安定させるために地租改正が行われたため、農民の負担は大きくなっていた。19世紀末には人口が急増し、国民を支えるための物資が不足していた。1904年から1905年にかけて日露戦争が起こり、人々の暮らしはますます苦しくなった。徴兵制を逃れるために移住する若者もいた6。こうした移民は志が高く、勤勉であり、多くは新天地で成功し、数年後に日本に帰国するという夢を持っていた7

しかし期待とは裏腹に、現実は、政治的、経済的、社会的な障壁が多く、差別にさらされた。例えば、外国人土地法によって、日本人は土地を所有できず、借用さえも3年以内に制限されていた。出生地主義によってアメリカ国籍を持つ子どもの名義で土地を購入し、この制限を避ける者もいたが、のちに、この方法さえもアジア系に対する差別的法律により制限されることになった8

日本人移民の多くは、妻や子どもも含めて、過酷な農作業を行った。作家のケアリー·マックウィリアムズが、その著書に『畑の中の工場』9と題するように、働く姿はまるで人間ロボットのようだった。しゃがんだ姿勢での作業が延々と続いた。しかし、こうした労働者の中には、早々に大規模農場を離れ、日本の実家の田んぼと同じくらいの大きさの畑で小作農をする者も出てきた。

ロサンゼルス

南カリフォルニアでは、日系人は拡大する都会の片隅で農業を営んでいた。20世紀初頭、多くの農場がロサンゼルスのダウンタウン付近にあった。現在では人口が密集する地域である(地図1)。また、フラトン、アルタデナ、ブエナパークのはずれでは、長期にわたって農業が営まれていたが、やがて郊外の住宅地へと変わっていった。

地図1:1970年頃のロサンゼルス市の地図。赤い印は、松本テエによる農場と自宅のあった場所。

日本人は土地を所有していなかったので、成長に何年もかかる樹木やブドウを栽培することはほとんどなかった。日系人が栽培したのは主に花(特に北カリフォルニア)、果物、野菜(セロリ、ジャガイモ、玉ネギ、カブ、レタス、キャベツ)など、すぐに収穫できるものばかりであった。例えばガーデナは、南カリフォルニアにおけるイチゴの一大産地として知られるようになった。1906年、この地域の日系アメリカ人の農家は新技術、労働力、設備などを共有するための協会を作り、1910年には「ロサンゼルス地域の中で1エーカー(約4000平米)当たり最高の収穫高」10を誇るようになった。

こうした成功の一因には、協力し合って働く日本のチームワークの文化が背景にあった。中には資金を出し合って土地をリースすることで、小作農へと移行する者もいた。また、労働力を配分し、地主に支払う地代の集金や労働者(日本人、非日系人を問わず)への賃金を分配する組織もあった。このような仕組みは地主にとっても都合がよく、土地を所有しない日本人にとっても農場経営者になる道が開けた。

1900年当時、カリフォルニア州で日本人が経営する農場は37園しかなかった。そのわずか10年後には、カリフォルニアで働く一世農家の数は1816軒に増加した。1941年になると、日本人移民とその子供たち二世は「カリフォルニア州で栽培される商用作物の実に30~35パーセントを生産する」11ほどの成功を収めた。

これは人種差別と恐怖にさらされながらも達成されたものである。1921年、日系人農家の成功を制限し、日本からの移民を禁止するための骨子案が、カリフォルニア排日同盟から国務長官に提出された。見方を変えれば、これは人種差別的な非難と言うよりは、むしろ意図しない(日本人への)賞賛と読み解くこともできるのではないだろうか。

日本人は経済競争において優位な立場にあるが、その理由としては……倹約に励み、勤勉で、質素に暮らし、道楽せず長時間労働もいとわない……男性と肩を並べて働く女性……(さらには)並外れた協調性と団結力を持つからである。

—カリフォルニア排日同盟12


若次とテエ

1906年に父親の農場に到着した若次は、畑仕事や馬車に青果物を積んでロサンゼルスの市場へ配達するなど、できる限りの手伝いをした。しかし、もともと勉強熱心で芸術家肌の若次は、農業以外にやりたいことがあった。彼の夢は芸術家、特にグラフィックアーティストになることだった。しかし異国の地でその夢を叶えるのは簡単なことではない。若次は英語の勉強のためにハウスボーイとして働き始めた。意外にも、若次の写真花嫁であるテエが農業を一手に引き受けてくれたので、若次は農場での仕事に縛られることなく、夢を追い求めることができた。

若次と同じ村出身の木村テエは、1912年にサンフランシスコに到着した。通常アメリカに住む花婿は、写真でしか花嫁を見たことがないので「写真花嫁」と呼ばれていたが、その多くは家族や村とのつながりがあった。若次たちの場合、テエの兄が若次と同級生で、テエも若次の弟のヨシオとは小学校時代からの知り合いだった。

伝統的に日本では、結婚を仲立ちする仲人がいる。そして、花嫁の名前を夫の戸籍に入れて、正式に夫婦と認められる。しかし、このような結婚はアメリカ政府には正当なものとは認められなかった。そのため、写真花嫁がアメリカに到着すると、すぐに波止場やホテルで集団結婚式が行われることが多かった。しかし若次とテエの場合はそうではなかった。テエは到着するや否や、健康問題の疑いがあるとのことでエンジェル・アイランドに隔離されたのだ。施設に閉じ込められてつらい思いをするテエを慰めようと、若次は柵越しにテエと面会したが、それがかえってテエを囚人のような気分にさせてしまったという。その後、テエが解放されると、2人はすぐに教会で式を挙げた。

テエは侍の家の出身だったので、おそらく畑で働いた経験は皆無だったにちがいない。彼女の父は剣道の名手で広島藩主浅野家の師範でもあった。あるとき、日本で、テエの義母が酔っぱらいにしつこく金をせびられて困っていた。そこで、テエが「私は木村の娘ですよ」と言うと、酔っぱらいは一目散に逃げ出したという。また、テエは10代の頃、礼儀作法を身につけるため、韓国で外交官の家に預けられた。しかしロサンゼルスでは、日本の農業移民という、今までとはまったく違う世界に身を置くことになる。

写真2:松本若次「本を読む松本テエ」1925年頃

そんなテエを引き受け、面倒を見たのは若次の父親である若松だった。彼はテエに農場経営や、日系人とメキシコ系アメリカ人の労働者への賃金の支払い方などを一から教えた。(写真1)テエは、いつも午前2時か3時には起き出して、子育てをしながら夜遅くまで農場の経営にいそしんだ。家の掃除をし、家族と農場の労働者のために食事を作った。スペイン語も勉強し、メキシコ系アメリカ人のためにトルティーヤも作った。そして何より、テエはこうした仕事を完璧にこなしたのだった。そのため、19若次の父若松は、1917年に農場をテエに託し、12年前に妻と子どもたちを残してきた広島南部の小さな村、地御前へ帰郷した。

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脚注:

1. Yamato Ichihashi, Japanese Immigration: Its Status in California (San Francisco, 1915), 22; H. A. Millis, The Japanese Problem in the United States (New York, 1915), 103.

2.若次は長男ではなかったが、1902年に兄が亡くなったので、長男として扱われていた。

3. Cecilia M. Tsu, “Sex, Lies, and Agriculture: Reconstructing Japanese Immigrant Gender Relations in Rural California, 1900–1913.” Pacific Historical Review 78, no. 2 (2009): 174 / Carey McWilliams, Factories in the Field: The Story of Migratory Farm Labor in California (Berkeley, Los Angeles, London, 1935, 1939, 1966), 105.

4. U.S. Census as cited in John Modell, The Economics and Politics of Racial Accommodation: The Japanese in Los Angeles, 1900–1942 (Urbana: University of Illinois Press, 1977), 18.

5. Carey McWilliams, Factories in the Field: The Story of Migratory Farm Labor in California (Berkeley, Los Angeles, London, 1935, 1939, 1966), 105.

6.同上

7.同上、p. 25

8. Cherstin Lyon, “Alien land laws,” Densho Encyclopedia (accessed 2/11/2020).

9. Carey McWilliams, Factories in the Filed: The Story of Migrant Farm Labor in California (Berkeley: University of California Press, 1935).

10. Donna Graves, “Transforming a Hostile Environment: Japanese Immigrant Farmers in Metropolitan California,” 202.

11.同上、p. 25-29。A. V. Krebs, “Bitter Harvest,” The Washington Post, February 2, 1992などの資料によると、収穫高は40%に達した。

12. Japanese Exclusion League of California, Japanese Immigration and Colonization: Skeleton Brief Filed with the Secretary of State (Washington: Government Printing Office, 1921), 14.

* * * * *

このエッセイは全米日系人博物館のオンライン展示「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917年〜1944年」に合わせて寄稿されたものである。展示では、写真家、松本若次のレンズを通して撮影された、第二次世界大戦前のロサンゼルスの日系アメリカ人コミュニティーと、1945年の原爆投下前の広島の都市の生活を記録した貴重な写真をご紹介します。

オンライン展示サイト:janm.org/ja/exhibits/wakaji-matsumoto.

*写真はすべて松本若次撮影(著作権:松本家)

 

© 2022 Dennis Reed

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このシリーズについて

このシリーズは、ロサンゼルスの農家から写真家に転身し、戦前の広島で活躍した松本若次の生涯に光を当てる。彼の貴重な写真にはロサンゼルス地域に住んでいた日系アメリカ人農家の姿、ロサンゼルスのリトル東京で行われた行事、そして1945年の原爆投下前の広島市内の生活の様子がとらえられている。芸術性とドキュメンタリー性を兼ね備えた若次の写真には、両都市の一連のパノラマ写真も含まれている。

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この2本のエッセイは、全米日系人博物館のオンライン展示「松本若次:二つの世界を生きた芸術家 ロサンゼルスと広島、1917〜1944」に合わせて、キュレーターのデニス·リードと若次の孫娘に当たるカレン松本が寄稿したものである。デニスのエッセイは3回にわたって掲載する。

オンライン展示サイト:janm.org/ja/exhibits/wakaji-matsumoto.

*写真はすべて松本若次撮影(著作権:松本ファミリー)

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執筆者について

デニス・リードはキュレーター、収集家、芸術家そして作家である。戦時中に日系人が強制収容されたことにより、大部分が失われた日系人写真家の作品を再発見したことで知られる。これまでにホイットニー美術館、ハンティントンライブラリー、オークランド博物館、コーコラン美術館、中国歴史協会(サンフランシスコ)、カリフォルニア写真博物館、全米日系人博物館など、大小合わせて50以上の展覧会を企画した。代表的な著書に『Pictorialism in California, 1900-1940』(ゲッティ美術館およびハンティントンライブラリー)、『Japanese Photography in America, 1920-1940』(日米文化会館)『Making Waves: Japanese American Photography, 1920-1940』(全米日系人博物館)など。ロサンゼルス・バレー・カレッジの芸術学部の元学部長。ロサンゼルス・カウンティー美術館(LACMA)の写真芸術評議会の元議長。

(2022年9月 更新)

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