珍しく早起きしてソファで血圧を計っていると電話が鳴った。早朝に電話がなるのはお葬式の知らせと決まっているので、恐る恐る受話器を取る。
「オレオレ、まだ寝てた?」
アチバイアに住むさくら丸同船者の三木路生(みちお)さんだった。
「聞いて驚くな!」
人をビックリさせるあの独特の抑揚。同船者で病気の人って誰だっけ?それとも元気な人が事故か何かで?早く教えて!
向こうもじれったいのか「聞いて驚くなかれ!昨日、珍しい人に会ったよ」と切り出した。
アー、誰も死ななくて良かったと安堵する。
三木さんは続けて、「第1回移民船笠戸丸移民の二世第1号の人だよ」と自慢げな声だ。なんだかんだと説明があって、「君にこの事を新聞に書いてほしい」と依頼された。次の日、彼は断れ切れない私に数冊の資料を届けに来た。
その人はローザ・芳子・樋口・ジョーンズさん。1908年4月2日出港の第1回移民船笠戸丸乗船時、母の樋口タニさんは妊娠1ヶ月だったが気付いていなかった。樋口敏政・タニの一家はモジアナのグァタパラを経て、ノロエステ線のピラジュイの耕地に入る。その年の10月15日、ローザさんが生まれる。
未熟児として小さくひ弱に生まれが、黒い髪の毛の乳児は母のお乳を一生懸命飲んですくすくと育った。樋口一家はリオ州のノ―バ・イグアスに移り米作に従事したが、父の敏政さんが死亡。母タニさんはローザと日本生まれの兄敏信、妹のフランシスカ・シズコの3人を連れて、弟の村崎豊重さんを頼ってサンパウロに出た。タニさんは織物工場で働いて生計を立てる。
その後、村崎さんは敏信とロ―ザを勉強させる為にリベロン・プレットの耕地に移るが、仕事に追われて学校どころではない。タニさんはサンパウロで香山六郎さんと再婚する。
それから、一家はあちこちの耕地を渡り歩いたが、香山さんは新聞社を起こす為にバウルーに移った。この時ローザさんは12歳。市内の小学校に入った。小学校を終えると商業学校で簿記とタイプを勉強した。
1930年、バーシ・ウイリアム・ジョンズという英国人と結婚した。両親は国際結婚に反対だったので、2人は登記所で結婚した。日本移民の二世第1号のローザさんは国際結婚でも第1号となった。
男やもめの三木さんは毎日アチバイア市内の日本料理店でお昼を食べている。そこで日本人の様なブラジル人の様なマダムといつも目が合っていたそうだ。先日、思い切って話しかけると、自分は日本人と英国人の混血だという。彼女の母が笠戸丸移民のタニさんの娘、ブラジルで初めて生まれた日系二世のローザさんであった。
尋問するのが上手な三木さんに、その女性ドロシーさんは大事に仕舞っていた母の思い出の写真集とブラジルの一流週刊誌の『ヴェジャ』誌、『ヴィゾン』誌、『マンシェッテ』誌に載った日系コロニア特集版を見せて、良かったらゆっくり読んでと渡してくれたという。
45年前にそういった、ブラジルの一流週刊誌にブラジル人向けに紹介されたローザさんの存在は、今になってまた、日本移民の歴史の1ページを飾るのではないか。私達は再度日系の新聞で取り上げたり、サンパウロ日伯文化協会の日本移民史料館に紹介すべきだと思った。
美味しいブラジル食があるのに、三木さんが好んで食べるのは白ご飯に味噌汁とお寿。ドロシ-さんと夫のパウロさんも日本食は大好きだという。日本料理が縁で三木さんはドロシーさんと夫のパウロさんに出会えた。三木さんは近いうちに2人をアチバイア日伯文化体育協会に紹介するという。
© 2021 Maximiliano Shigeki Matsumura
ニマ会によるお気に入り
特別企画「ニッケイ物語」シリーズへの投稿文は、コミュニティによるお気に入り投票の対象作品でした。投票してくださったみなさん、ありがとうございました。