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ブラジルのニッケイ新聞12月廃刊・40年間邦字紙支えたラウル社長 - その1

ニッケイ新聞の紙面

「ニッケイ新聞」の2021年11月18日号2面において、高木ラウル社長が「12月18日号をもって廃刊する」と公表した。残念なことだが、あと1カ月で本紙(ニッケイ新聞)は幕を閉じる。

ノロエステ連合日伯文化協会の元会長、白石一資さんにそれに関するコメントを求めると、「新聞がなくなると本当に困る。毎日読まないと、日系団体のことが分からなくなるし、日本語を忘れてしまう」と邦字紙の価値を再認識させてくれた。

白石一資さん

白石さんは1935年6月11日、サンパウロ州ガララペス生まれの二世だ。

さらに「父も邦字紙を読んでいた。ボクが日本語学校で12の巻きを終えたとき、もうそれ以上先を教える教科書がなくなってしまった。父にそれを言うと、『おまえも新聞を読め。最初は分からないところもあるだろうから、それは飛ばして、とにかく毎日読め。そうすればだんだん分かるようになる』と言われた」とのエピソードを披露した。

白石さんは、父の言う通りにして新聞を読めるようになった。以来、欠かさずに邦字紙を読んでいるという。


40年間、邦字紙一筋に働いてきたラウル社長

ラウル社長は「私が40年間、邦字紙で働いてこれたのは、愛読者のおかげ。ここまで続けてこられたことに、心から感謝したい」と繰り返す。

ラウル社長は1946年1月、聖市生まれの75歳。カトリック大学法科を卒業して、西功法律事務所に務めていた時、同じビル内の日伯毎日新聞(以下、日毎)の中林敏彦社長と親しくなった。西弁護士は日毎の法定責任者も務めていた。

その縁で1981年に日毎に入社し、そこから40年間の邦字紙生活だ。そして、「83年からこっそりと社長を引き継いだ」という。

なぜ「こっそり」かといえば、当時はまだ37歳の若造で、いきなり「邦字紙社長になった」といっても、周りから信用されないのではとラウル社長が心配したからだ。

中林さんに「しばらく公表しないで、こっそり引き継ぎをして欲しい。自然に知られるようになるのを待ちたい」とお願いして就任したという。

ラウル社長は「中林社長の願いを引き受けるに当たり、最初に相談したのは、一百野さんだった。彼が『ラウルなら私も続ける』と言ってくれたので、決断した」と振り返る。一百野雄吉さんは当時の編集長だ。

当初、中林社長が後継者として白羽の矢を立てたのは、ソールナッセンテ証券を創業して大成功していた戦後移民・若松孝司さんだった。若松さんは元パウリスタ新聞記者であり、邦字紙事情にも詳しくて、資金力も充分あるため適任と思われたからだ。

だが、若松さんが自分の社員を一週間、新聞社に送り込んで財務状態を調査させた結果、「引き受けられない」と返事をしてきたという。

すでに労働裁判なども抱え、経営状態はかなり悪化していたからだ。その結果、二世で現地事情に明るく、法科卒の弁護士として裁判慣れしているラウル氏が選ばれた。

日毎は二世が社長になったことで、当時3紙あった邦字紙の中で、雑誌出版などの多角化、ポルトガル語紙面の充実などに力を入れるようになった。

平版印刷機でガッチャン、ガッチャン

ラウル社長は「私が社長になった頃、印刷機は平版で、一枚、一枚、ガッチャン、ガッチャンと印刷するものだった。だから印刷だけで6時間もかかった。パウリスタ新聞とサンパウロ新聞はすでに最新の輪転機を導入しており、1時間もかからない。ボクも印刷から、配送部の折りの作業、配達まで手伝ったことあるよ」と思い出す。

当時の経営の苦労として最大のものはハイパーインフレだったという。「インフレが酷くて、給料が払えないことが良くあった。だから、なんとかバーレ(食券)だけは毎週金曜日に必ず配った」と振り返る。

そして「長年働いていてくれたある従業員が亡くなって、お葬式に行ったら、家族を紹介された。何番目の息子は弁護士、何番目は医者などと、子どもが皆立派な職業に就いていて本当にビックリした。どうしてあの給料で子どもにそんな教育を与えられたのかと、すごいと思った」としみじみ語った。


パウリスタ新聞と日毎が98年に合併、23年間の歴史

ニッケイ新聞は1998年3月3日付創刊号、吉田尚則編集局長《「読者と共に考える」創刊の辞にかえて》

振りかえれば、パウリスタ新聞(1947年1月創刊)と日伯毎日新聞(1949年1月創刊)という、共に半世紀の歴史を誇る邦字紙が合併して、ニッケイ新聞は1998年3月3日から始まった。

何のセレモニーもなく、突然新聞が切り替わる形で始まり、それから23年の歴史を刻んできた。

同創刊号の中で、吉田尚則編集局長は《「読者と共に考える」創刊の辞にかえて》として、次のように論じている。

日本の地方紙は地域に根ざした独自のテーマを抱え、何十年も変わることなく追及しており、それに習って《時流に即応した編集姿勢と時を超えた編集方針》をニッケイ新聞の有り方として掲げている。

その上で、後続移住者が途絶えた今、一世から一世にバトンを手渡すことができない時代を迎えたとし、《一世の体温が伝わるバトンを直接、子孫に託さなければならない》と論じる。

ブラジルという人種と文化の混交化が進む実験国家において、《本紙は「地域主義におけるグローバリズム」の情報発信体として、実験の過程と成果を日本や他の移民先発国のコミュニティに伝え、それらの地域から学び得た情報を日系社会に報告する。そのような新聞でありたいと念じています》と宣言した。

その高い志がどの程度実現できたが…。正直言ってはなはだ心もとない。

だが少なくともその間、皇太子殿下(現天皇陛下)のご来伯を頂いた移民百周年(2008年)、外交関係樹立120年(2015年)、眞子さまをお迎えした110周年(2018年)と重要な節目を記事として残してきた。

ニッケイ新聞が発行した刊行物の一部

なかでもコロニア出版物部門に力を入れ、日本語、ポルトガル語のどちらも数々の刊行物を出してきた。

2009年4月には百周年記念写真集『百年目の肖像~邦字紙が追った2008年~』(日ポ併記、オールカラー)も刊行した。

当時本紙記者だった堀江剛史さん(広島在住、現広島日伯協会理事)の尽力で実現した、2009年のアマゾン入植80周年を記念した連載をまとめた『アマゾン—日本人移民80周年』が、その後に続く出版事業の端緒となった。

2016年1月からは、日ポ語両語を並記した著作『日本文化(Cultura Japonesa)』シリーズを、サンパウロ青年図書館と共に刊行しはじめた。

年2、3冊を出し続け、2019年3月には『日本文化』第9号を、眞子さまご来伯特別写真集として刊行して好評をえたことは記憶に新しい。

また、パウリスタ新聞は1990年から研修記者制度を始めた。日毎は80年代から日伯交流協会生を毎年受けれて、両方の流れを合計すれば、70人を軽く超える人材が記者研修制度から育っている。

この研修生にはマスコミ志望者が多く、帰国後にかなり新聞社やテレビ局に入っている。朝日新聞、読売新聞、NHK、中日新聞、北海道新聞、高知新聞、岐阜新聞、神戸新聞などあちこちで活躍している。

ブラジル日系社会を知っている記者が日本でそれだけ活躍している。そんな人材育成も邦字紙の重要な役割だ。高木ラウル本紙社長はそのような「日本の若者育成」という新聞社の役割をつねづね強調してきた。

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