1900年から1961年まで
1961年に出版の「米國日系人百年史〜発展人士録」をもとに翌62年日本で出版された「アメリカ移民百年史」で、著者として加藤新一は「はしがき」のなかで、自分自身について、1916年中学に入ったばかりで、父親に父に呼び寄せられ、アメリカ本土にわたったと書いている。
(日米)開戦当時は、ロサンゼルスの米国産業日報編集長の職にあり、すぐに抑留されたが1942年の夏に、第一次交換船で日本に帰国。これは自身の希望でもあったという。そして日本では「戦中戦後の最も困難な時代に内地で新聞人生活を体験、一九五三年再渡米し現在に及んでいる」と記している。
まとめると、加藤は日本で生まれたが、中学で先にアメリカに渡った父親に呼び寄せられアメリカで暮らし、日米開戦当時は米国産業日報という日本語新聞の編集長をしていた。しかし、日本のメディアに携わるという者としてアメリカ政府に抑留されたのち日米交換船で帰国、日本では戦中戦後を通じて新聞関係の仕事をしていた。そして、1953年にふたたびアメリカへわたったということである。
出身は広島市
1916年に中学生になったばかりとあるので、およその年齢はわかるが、出身地や経歴も詳しくはわからない。著者としてはずいぶんと謙虚なものだと思い、なにかわかる手立てはないのものかと改めて1400ページ余りの「百年史」を見ていると、なんのことはない、ロサンゼルスを含む「南部カリフォルニア州」の章のなかに半ページを割いて、加藤新一についての紹介が、顔写真付きで掲載されている。
編者であり著者でもある加藤が、当然自らまとめたものである。本来なら編者(著者)紹介として掲載されてしかるべきだが、加藤はあえて「人士録」のなかに自らを置いたのだろう。
多少長くなるが、以下、全文を紹介したい。肩書は、本書の奥付にあるのと同じ「新日米新聞社主幹」とあり、当時の住所も記載されている。
加藤新一(広島県) SHINICHI KATO
1264 W, 38th St. L.A. 37, Calif.
加州羅府市の新日米新聞社主幹加藤新一氏は一九〇〇年九月九日、広島市横川町に故加藤松次郎、クマ夫妻の長男として生まれた。父松次郎は一九〇〇年に渡米、中加フレスノで日本飲食店、後ちパレヤで農業を営み、新一氏は一九一八年父の呼寄せで渡米しパレヤで父業を援け傍ら夜学などで勉学した。
厳父の帰国で自らは南加パサデナに移り庭園業に従事、一九二六年から羅府日米及び加州毎日新聞記者、一九三三年から南加中央農事会幹事、南加農会連盟支配人を勤め、その間朝の羅府農産物市況放送を創始、一九三七年から米国産業日報編集長、一九四〇年に「全米日本人産業総覧」を編集した。
日米開戦でモンタナミゾラ抑留所に監禁され、同年六月紐育から第一次交換船で帰国、郷里広島の中国新聞社で政治部長、編集局次長として七ヵ年勤務、一九四九年広島県広報部長に就任、日本国連協会広島県本部事務局長を兼ね、一九五二年十月第一回世界連邦アジア会議広島大会事務局長をも勤めた。
一九五三年産経新聞特派員として再渡米、後ち新日米新聞社に入社、次々に家族を呼寄せ、一九五八年米国永住権を獲得、現在同社主幹。同社の一九五五年度版及一九五九年度版全米日系人住所録を編集、一九六〇年に南加州日本人七十年史編集、同年の日米百年祭に日本政府から表彰を受け、また大日本農会から緑白綬有効章を贈られ、同年から、翌六一年にかけ新日米新聞社出版の「米国日系人百年史」並に「在米日系人発展人士録」をも編集した。
章子夫人(三島台太郎氏長女、東京普連土女学校卒)とは一九二七年羅府で結婚、一子ケネス直(二七歳)は広島の修道学園高校卒、羅府市初大、同州立大に学び、一九五九年加州東京銀行羅府支店に入社、現在は東京銀行羅府支店外国部に勤務している。
平和活動にも関わる
以上のプロフィールから、加藤新一は多くの移民を輩出した広島県(広島市)で生まれ、渡米後は農業などに従事しながら夜学で学び、やがて現地の日本語新聞などジャーナリズムの分野で活躍、戦争がはじまると抑留され日本に帰国。日本でも中国新聞の記者となり要職に就く。しかし、これにとどまらず広島県で平和関係の仕事に携わっている。そうかと思うと、再び渡米してまたアメリカの邦字新聞の仕事をしている。まさに日米を股にかけて実に多彩な活動をしていることがわかる。
これが61歳までの経歴で、その後のことはこのプロフィールを見つけた時点では不明でもあり、いったいどんな人生を送った人なのか、「百年史」取材で全米を駆け回ったことだけでなく、加藤新一なる人物が歩んだ道には興味をそそられるものがある。
原爆が投下されたときは、郷里の広島市にいたのではないかと思われるし、平和活動にも関わっているとなればなおさらだ。
広島での新聞記者としての仕事、そして広島と深いかかわりのある平和関係の仕事など、このプロフィールを手掛かりに、さらに細かく「加藤新一とその周辺」をたどっていくことにする。
(敬称略)
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