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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2015/8/18/okinawan-1/

日本史のミッシングリンク「移民」・ 沖縄県系人の多さの理由とは ~ その1

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日本では基地移転問題を巡って、沖縄県民が政府と対立を続けている。そんな沖縄県人の独自の意識のあり方を理解する一つのキーワードは移住ではないか。日本史には「移民史」というミッシングリンク(欠落部分)があり、おそらく通常は「欠落している」ことすら、まったく意識されていない。移住先で起きていることは日本の日本人の視野に入らず、普通は近代史の中で扱われない。でも、実は一体化したものであり、表面下で影響を与えている。

例えば、小熊英二慶応大学教授の大作『〈日本人〉の境界 沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』(新曜社、1998年、5800円)は778ページをかけて〝境界線上にいる日本人〟を詳細に論じているが、その索引をみても「ブラジル」どころか「移民」も「日系人」もない。

その他、江戸期から明治までの欧米諸国への日本人漂流民、留学生、旅芸人ら渡航者1700人が網羅されている『海を越えた日本人名事典』(冨田仁編、紀伊国屋書店、1985年)という1万5千円もする本を見つけた時、「どれだけ移民が出ているか」と胸躍らせて手に取ったら〝ブラジル移民の祖〟水野龍すら出ておらず、ましてそれ以外の人物は扱われていないだろうと大いに落胆した。

同事典に掲載されている人物をよく見ると基本的に帰国した人ばかり。不思議なことに、帰国しないと日本的には「海を越えた」ことにならないらしい。日本の日本人の「思考回路の鎖国性」を見事に表している一冊だと痛感した。

なぜ移民史には「B面」が刻まれているかといえば、日本国内においてなんらかの事情や強い想いがあった人が移住したからだ。その事情や想いを抱えたまま、国境をこえ、祖国からは顧みられることが無くなった。その結果、ブラジル移民でいえば、中規模都市まるごと一つ分にあたる「25万人の歴史」がまったく無視され、つい最近まで歴史や地理の教科書でもほとんど扱われてこなかった。


世界の日系人の1割を占める沖縄県系

ブラジル移民史の特徴の一つは「沖縄県系人の多さ」だろう。この「県系人」という言葉自体、沖縄タイムスや琉球新報でふつうに使われる「沖縄式言葉使い」で、他の県紙にはまず見られない独特なものだ。

日本で考えた場合、沖縄県(140万人)の人口は日本のわずか1%強なのに、世界の日系社会(350万人)全体の10%(35万人)を占める。ブラジル日系社会(160万人)においても、やはり1割(17万人)と言われ、ペルーやアルゼンチンにおいては9割以上が沖縄県系といわれる。つまり、新大陸では人口比が変わる。

世界の沖縄県系人の分布図(出典 http://www.oki-ngo.org/lets-study/?page_id=23

なぜ、そんなに沖縄県系人が多いかと言えば、近代日本の歴史的なヒズミが、この島に集中していたことの裏返しに他ならない。

沖縄県の側から見ると、県人口140万人に対して在外県系人は35万人もいる。母県人口の25%にあたる人が、外国に住んでいる「移民大県」だ。そんな県はほかにない。

どうして、そんな移民大県になったのか――。


「差別」と「戦争」が移住を後押し

移住の押し出し圧力としては「社会の平等化を求める気持ち」「母県の経済的苦境」「沖縄戦」だろう。

重税を課されてソテツ以外に食べる物が無いような明治期の「ソテツ地獄」の時代において、移住する事は「権利を獲得すること」、社会の平等化を求める運動だった。本土からの移民の最初が「元年者」とよばれる明治初年にハワイに渡った者たちだったが、沖縄県人は当初禁止され、本土並みの権利を求めるこの運動をして、遅れること30年、1899年にようやく認められたからだ。

沖縄県系の笠戸丸移民325人について執念ともいえる追跡調査をした著書『未来に継ぐ裔孫』(赤嶺園子、沖縄タイムス刊、2014年)
また『近代沖縄の歩み』(新里金福、大城立裕、琉球新報社、1972年、P.198)には《学術人類館の中に、ショッキングな陳列があった》とある。1903年4月に大阪で開催された第5回勧業博覧会の学術人類館に朝鮮人、アイヌ人と共に「琉球貴婦人」(実際は娼婦)が陳列(?)されたからだ。そんな差別を乗り越え、移住が解禁されたばかりの時期だったこともあり、最初のブラジル移民「笠戸丸」(1908年)約800人の中で沖縄県人は325人を占めた。

ブラジルにおいても、日本国外務省は沖縄移民のコーヒー耕地定着率の悪さを理由に1919年に実質的な沖縄移民禁止処置をとり、ようやく解除されたのは1926年だった。つまり、出足が遅れたにも関わらず、あっというまに本土の移民に追いつき、追い越した。

『沖縄県人90周年記念誌』によれば、こうして戦前に1万5286人(101ページ)、戦後に6175人(177ページ)、合計2万1461人が沖縄から移住した。全移民25万人の8.6%にあたる。

戦後移民だけを見れば全部で5万3498人なので11.5%を占める。47都道府県で5万3498人を割れば平均1138人であり、5.4倍が移住した訳だ。

戦後の多さの主たる理由は沖縄戦だ。那覇市には「小禄(おろく)」という字(あざ、通り)がある。そこからだけでなんと4000人がブラジルへ移住したという。静岡県の全移住者数が4881人であり、その82%に匹敵する。面積あたりで日本一移住者数が多い地区だろう。

なぜ、そんなにたくさん移住したのか。小禄にいけばすぐにわかるが、当時、前に那覇軍港、後に海軍司令部、横に空港という立地だった。沖縄戦で「1平米に爆弾二つぐらい落ちた」という猛烈な爆撃を受けたという。だから戦前だけでなく、戦後も家族を呼び寄せて大量にブラジルに来ている。

その地区出身の戦前移民に上原幸啓さんがいる。戦前、兄弟が米国移民していたオバアが、「戦争になったら沖縄は最後だ」とくり返し言って、幸啓さんの父に「ブラジルへ行け」と薦めたので、父はしかたなく子供だけを渡伯させた。日本に残った上原さんの父と妹は、防空壕の中に隠れていたのに爆撃で死んでしまった。悲しいことに、オバアの情報と判断は正しかった。そんな戦前移民が戦争で苦しんだ同郷の親族を大量に呼び寄せた。

その2 >>

 

© 2015 Masayuki Fukasawa

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執筆者について

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。2022年からブラジル日報編集長。

(2022年1月 更新)

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