ディスカバー・ニッケイ

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ポルトガル語の試験

いよいよ試験が始まったら、あの頃はエスクリタ(筆記)とオラウ(会話)が両方あったんです。ポルトゲース(ポルトガル語)はもうエスクリタは何とか考えてやるけれども、オラウになったら何を先生が言ってるのか、一向にわからない。ジオグラフィア(地理)もヒストリア(歴史)も質問してくれるの何回も聞き返して、話をするわけなんです。ところが当時、オラウが、エサム・オラウ(口答試験)ってことは、後ろの方に山ほど学生が来て聞いてるわけなんです。僕らが何か言うと、「わぁ!」っと笑うんですねぇ。もうこっちはもうそれだけでもあがっちゃって、何のことやらわからない。で、今でも思い出しますが、コンジュガショ・デ・ヴェルーボ(動詞の活用)をポルトゲースの試験で、3人先生が目の前に座ってて、次から次へと質問するんです。まぁその時は、何とか、危ないとこを切り抜けたんですが、中には、ベルボ「ショベール(雨が降る)」ってのをコンジュガショ(活用)しろって言ってね、「エウ・・・(私は・・・)」とか言ってね、コンジュガションやるもんだからもう学生がわぁわぁ笑うわけなんです。そんなことが僕らもそばで聞いてて、大変なことになったぞ。もう一つはね、作文の題が出たんです。作文の題を黒板に書いて、第1回の試験のときに「オ・ソフリメント(苦難)」って書いてあるんです。それで、あのパペルアルマソ(罫線入りの紙)20行以上書けって。これが試験なんです。ところが、ソフリメントってどういう意味かわからないんです。書きようがないわけですね。ところが見るとイタリアノやらフランセースやら、皆がとっととっと書いてるから、これはまぁとんでもないことになった。何とか書かなくてはいけない。これは見ると今日みたいに非常にいいお天気だから、こういういいお天気の時には散歩したら気持ちがいいだろうって書いた。下宿へ帰って来て辞書見たら、ソフリメントがとんでもない話、まったくあれがソフリメントだったんですね。ま、そういうことで僕ら仲間3人ともポルトゲースは通らない。


教育 ポルトガル語

日付:

場所: ブラジル

提供: Caminho da memória - 遥かなるみちのり. São Paulo, Brazil: Comissão de Elaboração da História dos 80 Anos de Imigração Japonesa no Brasil, 1998. VHS.

語り手のプロフィール

二木秀人氏は1911年7月に長野県に生まれました。1932年に「モンテビデオ丸」にて渡伯、1936年にSorocabanaの学校へ入学しました。1937年から42年にかけては大正学校の先生として勤務、閉校後も教師としての仕事を続けました。1946年には、力行会と共にサンパウロ学生会を設立。1953年にはハーモニー学生寮の創設にも貢献し、以来そこで27年間勤務しました。二木氏の功績は認められ、日本政府から勲五等瑞宝章を、ブラジルにおいては、São Bernardo do Campo名誉市民の称号があたれられました。 (1998年)

サカエ・シゲカワ

良い助言を受けて (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

パウロ・イサム・ヒラノ

日本に移住して苦労したこと

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

関利彦

金の卵を育てる

寿司職人(1962年生)

田岡 功

移住地教育とパラグアイへの思い

パラグアイ駐日大使(1943年生)

堀切 エドワード・徹

最も運に恵まれた一世(英語)

帰米二世(1929年生)

ススム・“スス” ・イトウ

復員兵援護法を利用して博士号を取得(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

トム・ユキ

朝鮮戦争での戦闘参加を避けるため、ヨーロッパでの任務を希望(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

家族の日系ルーツと価値観 (英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミツル・”ミッツ”・カタオカ

ロードアイランドで直面した住宅差別(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

ハワード・カキタ

アメリカ生活への適応(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ジョージ・アリヨシ

舌足らずの話し方を直してくれた先生 (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

ジェームス・ヒラバヤシ

民族研究の内情 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

フットボールのトレーニングのために100ポンドの芝を担いで山を越える (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

リチャード・コサキ

第2次大戦中の陸軍語学学校での教鞭(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)

リチャード・コサキ

コミュニティ大学の教師として学んだこと(英語)

ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)