ディスカバー・ニッケイ

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大学進学を勧められて (英語)

(英語) 私たち一家はオレゴン州東部に移り住むための旅行許可証を申請し、許可証を手に入れることができました。その後2年間、オレゴンで農場を経営し、経済的に充分安定するようになった頃、弟のヨシが大学に進むことになりました。ヨシがミシガン大学に入学したのは、私たちがオレゴンに移住した数年後のことです。私も大学に戻りたいと思っていたので、1944年、ウィスコンシン大学に願書を送りました。でも実際は、農場を出ることにためらいを感じていました。農場の仕事に責任を感じていたからです。たまねぎの収穫が間近に迫っていましたし、その後にはじゃがいも、テンサイ、と収穫期が続いていたのです。農場を出ることが良い選択だとは、どうしても思えなかったのです。結局父に説得され、学校が始まる一週間前に私は家を出ました。スーツケースを1つだけ抱えて、オンタリオからシカゴ、マディソンと電車を乗り継いで行ったことを覚えています。私の所持品は、全てそのスーツケースの中にありました。


農業 大学(colleges) 農業 (farming)

日付: 2005年12月6日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

トシオ・イナハラ医学博士は、1921年4人兄弟の長男としてワシントン州シアトルで生まれました。3歳の時、家族とともに日本へ6ヶ月間滞在、その後、アメリカのタコマへ帰国した後、彼の父は和菓子屋、風月堂をオープンし成功しました。子供を田舎で育てることを望んだ父は、1931年にオレゴン州ポートランドの30マイル西にある農場へと引っ越しました。

1941年12月の日本による真珠湾攻撃を機に、西海岸にいる日系アメリカ人に対して集合センターへの移動命令が公布されました。しかし、イナハラ一家は旅行許可書を手に入れ、オレゴン東部の州境にあるオンタリオの近くへと自主的に移動しました。1942年、トシはアメリカ空軍へ志願しましたが、日系人という理由で拒否されました。

2年間家族の農業を手伝ったあと、トシオはウィスコンシン大学へ入学し医学を学びました。戦後はポートランドへ戻り、1950年オレゴン大学で医学博士を取得します。その後、インターンシップ・医学研修期間を終了した彼は、ボストンのマサチューセッツ病院で血管外科医として訓練を受けました。その後ポートランドへ戻り、個人で開業するかたわら、オレゴン大学の医学学校にて外科医学の臨床講師として務めました。

現在、イナハラ博士は頚動脈内膜剥離術(carotid endarterectomy: CEA)における世界で最も権威のある医者の一人であり、プルイット・イナハラ頚動脈シャントの共同発明者でもあります。(2005年12月6日)

ジミー・コウ・フクハラ

除隊と種苗業の再開(英語)

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

トム・ユキ

野菜の栽培と出荷の共同会社を立ち上げた父(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

トム・ユキ

第二次大戦中は父のビジネスパートナーが農業ビジネスを管理した(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

モニカ・タイシャ―

コロンビアに移住した祖父(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)