ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/301/

渡日に対する決断に祖母の影響(英語)

(英語) 僕が日本へ来たのは祖母の影響だと思います。僕の家族には僕が旅行する為のチケットを準備する余裕はなかったので、何か別のやり方を見つけなければなりませんでした。大学ではちょうど海外交換留学プログラムが組まれていて、それに自分も参加したいと思ったんです。 でも、自分はヨーロッパに行くものだといつも思っていたんです。高校ではドイツ語を勉強していましたし、子供の頃アメリカは基本的にヨーロッパ文化で成り立っていましたからね。今ではラテン系やアジア系が多数入って来ていますけど、当時は基本的にはヨーロッパ文化一辺倒でした。それから戦争の影響もあって、日系アメリカ人が自分たちのアイデンティティを確立するのは難しかったんです。アメリカで生まれた人は、人種のるつぼの中にアメリカ人として溶け込み、アメリカ人として生きたいと思っているんですね。そして僕は、ドイツ語を勉強したこともあって、交換留学の申込用紙を手にした時にはドイツのヘイデルベルグ行きを希望すると書くつもりでした。でも実際に用紙に書き込む時、僕は行き先を選択する欄に初めて日本と書いたんです。僕の祖母は強い女性だったのですが、そんな祖母や両親を見て育ったからこそ、僕はその時日本と書いたんだと思いますね。


教育 Finding Home(映画) 留学 アイデンティティ 移住 (migration)

日付: 2003年11月28日

場所: 日本、佐賀県

インタビュアー: アート・ノムラ

提供: アート・ノムラ、『ファインディング・ホーム』

語り手のプロフィール

61歳の日系アメリカ人四世(母系から数えた場合)、ボブ・キヨシ・オカサキ氏は1942年の第二次世界大戦中にカリフォルニア州のフレンチキャンプで生まれ、まもなくしてオカサキ一家はアーカンソー州ローワー強制収容所に送られました。戦後、一家はカリフォルニア州ストックトン、後にロディに引っ越して、ブドウ園を経営しました。

ボブはサンノゼ州立大学に進学し、まもなくして陶芸に専念するようになりました。海外留学プログラムを通して、ボブは芸術的な陶器で知られている日本へ留学し、人間国宝の陶芸家の元へ弟子入りしました。

インタビューの中で、彼は自分のアイデンティティについて、日本を訪れた当初はアメリカ人としての意識が強かったけれど今ではアメリカへ帰国してもアメリカ人ではないように感じると述べています。彼は1975年に日本人女性と結婚し、1985年に最初の子供を授かりました。日本に到着したばかりの頃について、彼の日本語の理解度が低かったため、まるで彼がそこに存在しないかのように振舞う人もいたと当時のことを語っています。また、日系アメリカ人ゆえに、初めは奥さんの家族とも多少ぎくしゃくしたところもあったようですが、今では自分の家族と同じく心休まる存在になっているそうです。(2003年11月28日)

ミツエ・ヤマダ

詩を通して自分を表現(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツエ・ヤマダ

写真花嫁の集団と一緒にアメリカに渡った母(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツエ・ヤマダ

日本から到着した母のためにアメリカの洋服を買った父(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツエ・ヤマダ

「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ファン・アルベルト・松本

エスコバールについて(スペイン語)

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。