ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/241/

10代での収容所生活 (英語)

(英語) 収容所に入れられた当時、バラック建ての家には寝る為だけにしか帰りませんでした。隣の家庭とを仕切るバラックの壁は垂木までの高さしかなくて、屋根の部分は全部空いているので、近所の人の話がつつ抜けでした。でも私はこれをいいことに、好き勝手な事をやっていました。 私の両親は、トランプやどんなカードゲームもギャンブルに関連するからといってやらせてくれませんでした。ですから私は収容所に入るまでトランプの遊び方を知りませんでした。食事は食堂でとるため、仲間と食べて両親と一緒にとることはありませんでした。収容所では野球などをしたり、夜も遅くまで起きてPinnacle(というトランプゲーム)のやり方を習ったりして遊び、そのあと家に帰る生活でした。ある夜、ついに母の堪忍袋の緒がきれて、こってり絞られましたよ。バラックの端から端まで全員に聞こえるぐらいにね。


兵舎 投獄 監禁 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2004年1月7日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: アート・ハンセン

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジェームス・ヒラバヤシ氏は、20世紀初期に米国北西部太平洋岸に移住した勤勉な農民の息子として生まれました。1942年、当時高校3年生だったヒラバヤシ氏は、パインデール集合センターに一時的に拘留されましたが、その後北カリフォルニアのツールレイクの収容所へ移送、抑留されました。

第二次世界大戦後、シアトルのワシントン大学で人類学の文学士号(BA)と文学修士号(MA)取得し、その後ハーバード大学で博士号(Ph.D)を取得しました。現在はサンフランシスコ州立大学の名誉教授であり、合衆国で初めて設立された民族研究学部の学部長を務めました。そのほかにも、東京大学やアルバータ大学(カナダ)、アーマド・ベロ大学(ナイジェリアのザリア)での研究・教歴を持っています。

ヒラバヤシ氏は、2012年5月1日、85歳で亡くなりました。(2014年6月)

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家