ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1772/

親のペルーへの移住

彼は何百人もの日本人男性と一緒に船でペルーに渡ったので、到着するまでに長い時間がかかりました。ペルーには仕事がたくさんあると言われましたが、すぐにほとんど仕事がないことが分かりました。人々は飢えていました。お金を払って「ああ、飛行機で帰るよ」と言えるような状況ではありませんでした。船で帰ることもできませんでした。それで彼はすぐに大工という職業を辞めて農業をし、その後洗濯業に参入して成功しました。最終的に洗濯屋を3つ経営し、現地のコミュニティにもかなり関わりました。

地域に関わり、ビジネスを拡大し始めると、成功し、それが彼が狙われた理由の 1 つでした。彼は、3 つのランドリーで何人の従業員が働いていたかは正確には知りませんが、幼い子供たちの世話をする乳母とコックを雇い、車で送迎はしませんでしたが、リムジンを呼んでいました。つまり裕福だったのです。そうです。そして、彼が絶頂期にあったとき、彼らはビジネス、財産、もちろん、彼が持っていたすべてのお金を彼から奪い取りました。それがおそらく最もつらい部分です。

私の母は典型的な日本人妻なので、ただ従いました。彼女は写真花嫁なので、従いました。彼女に選択の余地があったわけでもありません。


花嫁 ビジネス 経済学 世代 移民 移住 (immigration) 一世 日本 日系ペルー人 経営 移住 (migration) ペルー 写真花嫁 妻たち

日付: 2019年9月20日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: トム・イケダ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

カズム・フリオ・セサール・ナガヌマ(永沼)は1942年7月28日、ペルーのリマで一世の両親のもとに生まれた。第二次世界大戦前、両親は洗濯業を営んでおり、父はコミュニティの中でもリーダー的存在であった。戦争が始まると、FBIは父親を逮捕し、家族全員がテキサス州クリスタル・シティにある司法省の収容所へ送られた。戦争が終わっても、一家はペルーに戻ることが許されなかったため、一家は収容所へしばらくとどまっていたが、ニュージャージー州のシーブロックバームのスポンサーを受け、収容所を離れ、その後、サンフランシスコの神道教会の教師の援助受け、サンフランシスコに移り住み、一家はそこで仕事と住居を見つけることができた。カズムはデザイン会社を設立し、成功を収めた。(2022年9月)

 

ロジャー・シモムラ

渡米後の祖母の差別体験(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

ロジャー・シモムラ

写真花嫁として渡米した祖母(英語)

日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)

マリオン・ツタカワ・カネモト

条約商人としてアメリカへ入国した母(英語)

日系アメリカ人二世。第二次大戦中に自主的に日本へ移住。(1927年生)

ローズ・クツカケ

両親がカナダへ渡航した理由(英語)

第二次大戦中にスロカンに収容。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー (1918-2004)

フレッド・ササキ

フレデリック・ヨシヒデ・ササキの家族構成(英語)

カナダの一世ビジネスマン(1918年生)

ミツオ・イトウ

渡日の決意(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

サム・ナイトウ

戦後に始めた輸入業(英語)

二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)

田中誠一

渡米(英語)

新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)

エンセン・井上

渡日の理由(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

アルフレド・カトウ

アイデンティティ: 日本人 vs. ペルー人(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

アルフレド・カトウ

日系コミュニティーにとってのペルー新報(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

アルフレド・カトウ

第2次大戦中、山中の小さな村へ避難(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

アルフレド・カトウ

戦後リマでの体験談(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

ビル・ハシズメ

父による農業経営の成功(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)