ディスカバー・ニッケイ

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クリスタルシティの地図で家族のバラックを見つける

クリスタル シティ キャンプ全体の地図です。私たちは本当にこのエリアにいました。私たちがどこにいるのか知りたくてこれを見始めたのですが、私たちの名前がそこに載っているのを見て驚きました。ああ、すごい、初めて私たちがそこにいると分かった、と思いました。まったく見当もつかなかったのです。そして地図自体も、まったく見当もつきません。だから今、私たちがどこにいるのか、つまり私たちがそこにいたのかが分かりました。

それは、単に「キャンプにいた」という漠然とした話ではなく、具体的に私たちが特定の場所にいたことを私に教えてくれました。そして、兄のジミーに話すと、彼は「ああ、そうだ、私たちはここにいるこの家族を知っていた」と言うことができ、それが物事を結びつけ始めました。私たちがどこにいたのかが本当に分かりました。私たちが子供の頃に知っていた果樹園、サトウキビは、その果樹園から来ているに違いありません。そして、すべてが少しずつつながり始め、明確になり、キャンプがどのようなものだったかが理解できるようになりました。


日付: 2019年9月20日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: トム・イケダ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

カズム・フリオ・セサール・ナガヌマ(永沼)は1942年7月28日、ペルーのリマで一世の両親のもとに生まれた。第二次世界大戦前、両親は洗濯業を営んでおり、父はコミュニティの中でもリーダー的存在であった。戦争が始まると、FBIは父親を逮捕し、家族全員がテキサス州クリスタル・シティにある司法省の収容所へ送られた。戦争が終わっても、一家はペルーに戻ることが許されなかったため、一家は収容所へしばらくとどまっていたが、ニュージャージー州のシーブロックバームのスポンサーを受け、収容所を離れ、その後、サンフランシスコの神道教会の教師の援助受け、サンフランシスコに移り住み、一家はそこで仕事と住居を見つけることができた。カズムはデザイン会社を設立し、成功を収めた。(2022年9月)

 

ジョージ・アリヨシ

戦時中のプロム (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

ジーン・アリヨシ

真珠湾攻撃の日 (英語)

ハワイ州知事の元ファーストレディー

カズオ・フナイ

日本と米国

一世実業家(1900-2005)

ジェームス・ヒラバヤシ

10代での収容所生活 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ロバート・カタヤマ

日記をつけるように命令され、後にFBIへ押収(英語)

第2次大戦中に第442連隊に所属していたハワイの二世

バーバラ・カワカミ

真珠湾攻撃 (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

バーバラ・カワカミ

兵士たちを手助け (英語)

日本人移民の衣服専門家・研究者

マサオ・コダニ

強制収容所での思い出(英語)

ロサンゼルスの洗心仏教寺の開教使・緊那羅(きんなら)太鼓の共同創始者。

ユリ・コチヤマ

病院に入った戦時捕虜としての父(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

愛国心 VS. 忠誠心(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

二世兵士への絵葉書(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

隠蔽されたキャンプでの出来事(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

収容所のポジティブな側面(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ユリ・コチヤマ

一世と二世の一斉検挙(英語)

公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)

作家(1934年生)