限りなく遠かった出会い
1934年19歳で単身ブラジルに移住し、81歳にブラジルで他界した父が書き残した日記や、祖父一家の体験話などをもとに、彼らのたどった旅路を、サンパウロ新聞のコラム「読者ルーム」に連載した(2003年4月~2005年8月)。そしてそのコラムをまとめ、「限りなく遠かった出会い」として、2005年に出版した。このシリーズでは、そのいくつかのエピソードを紹介する。
このシリーズのストーリー
父の日記(2) 横山家の思い出
2013年4月9日 • 宮村 秀光
81歳で他界した父は、神戸港を1933年2月に出航したありぞな丸で、移民として19歳の時、一人で来伯した。その父の古い日記帳をめくっていたら「船中思い出」と言う題で、1940年11月23日に書かれたページに目が止まった。従ってこの日記は、父が来伯後7年目に書いたものだった。以下はその日記帳から抜粋した内容である。 ある日、アマゾーナスで働いていたその人が、歯の治療のため、私を尋ねてきた。当然、アリゾナ丸の船中知り合って、あの地域へ行った方たちの行方について聞いてみ…
父の日記(1) あの時、私は…
2013年3月28日 • 宮村 秀光
その当時、父はサントスで歯の技工士の仕事をしていた。28歳で独身の身であった。後に、ある白人歯医者の名義を借りて正規ではなかったが、歯医者として開業をした。その頃の苦しい生活や失敗談、お世話になった方達のこと、サントスでの楽しい独身生活、華やかなカシーノでの遊びなどが、古い日記に書かれてある。開戦の6ヶ月前、父は神保と言う知人の紹介で、後に私の母となる敏子と知り合った。日記には、真珠湾の襲撃をはさんで、母との恋愛中の甘い想いなどが書かれてある。 1941年12月7日午…
おタネはん
2013年2月25日 • 宮村 秀光
私が初めてPIZZA を食べた時、こんなに美味いものがこの世にあるのかと思った。住んでいた北パラナーではその縁が無かった。田舎者で7歳の子供であった私が、初めてサンパウロに来た時「PIZZA は珍しいだろう」といって、父母が古くから世話になっていた「おタネさん」が取り寄せてくれたのであった。 おタネさんは、1920年代からサンパウロ市のタバチンゲーラ街に「東洋ホテル」を経営していた。西野氏と結婚するまでの姓は「岩尾」だった。世話好きで良く知られた人であった。 初めてPI…
黄金の日々
2013年2月15日 • 宮村 秀光
遠い昔の思い出と言うものは心に残り、又、その時を体験したもの同士が、それを語り合う時には何とも言えない満足感に満ちた一時がそこに漂い、見ている人もそれに感激することがたびたびある。私が、亡母(84)と伯母春子(92)、叔母澄子(80)の話を聞き、それを書き残す事にしてから、何度かそんな経験をしたことがある。それは叔母の澄子が話を切り出し、非常に席が盛り上がった時の事であった。 1936年ごろ、サンパウロ近郊のサント・アンドレーが舞台である。当時、父、宇一(53)を長とする…
ある日系二世ブラジル人の正月の想い
2013年1月18日 • 宮村 秀光
私は元旦生まれである。父母の生涯でもっとも異常な時期であった戦時中、サントス市日本人退去命令のため、田舎町パラガスー・パウリスタの小さな日本人旅館「丸林」の一室に住んでいたときに生まれたと、父の古い日記に書かれてある。すなわち、これが私のこの世の始めての正月であったのだ。 父はこの事を下記のように書き記している。 「一九四四年一月一日午前十時四十分、妻、敏子、男児出産する。この子、なんと天運の良き児であろう、なんと有意義な日に出生したのだろうか。私は三十歳の年をむか…