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戦中度重なる迫害受けた日系学校=泣きながら玉音放送聞いた女生徒 ー その1

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玉音放送聞いて100人が泣き、窓ガラス曇る

今から78年前の8月15日、サンパウロ市のサンパウロ女学院(現赤間学院)では、緊迫した表情の女生徒らが玉音放送の開始を固唾をのんで待っていた。

水上真由美さん

「赤間みちへ先生に言われて100人ほどの生徒職員が食堂に集まって、小さな短波ラジオから聞こえる玉音放送に耳を傾けたの。みんな戦争中もこっそり日本語を勉強していたし、当然日本は戦争に勝つと思っていた。でも放送を聞いて、これで日本が負けたって分かって皆がシクシク泣きだしたの。ラジオの音が外に漏れないように窓をしっかりと閉めていたから、皆の嗚咽と涙でガラスが曇ったのよ」

水上真由美さん(93歳、第3アリアンサ生まれ)を6月7日に取材した。サンパウロ市ベルゲイロ街にあった同学院では、こんな終戦の光景が繰り広げられていたのだ。

水上さんは第3アリアンサで3人目に生まれた2世で、当時15歳。「小学3年生を終えた後、ずっと百姓していたけど夜になると母から厳しく日本語を教えられ、日本語の本を読んでいました」とのこと。終戦直前の1945年2月からサンパウロ市に出て赤間で学んでいた。

「赤間先生から『もう戦争は終わったの。コソコソ隠れる必要はないから、窓を開けて、思いっきり泣きない』と言われて、それから私たちは大声で泣き始めたわ」と生々しく語る。

戦争中、日本語教育は禁止されていたが一部ではこっそりと続けられていた。終戦直後、勝ち負け抗争が始まるまでは日系社会のほぼ全員が日本戦勝を信じていた時代だ。この玉音放送を境に、日本が負けたことを信じる人と、信じられない人に分かれていく。

赤間学院内にも当時、同様の問題が起きた。歴史や地理を教えていた戦勝派の教師・渋谷慎吾さんらと、敗戦を信じた教師がおり、父兄や生徒を巻き込んで二つに分かれて騒動を起こした。

水上さんは「困った赤間先生は『なんとか堪えないといけない』と考え、戦争中すら続けていた日本語教育を一時中断して、結局どっちの肩を持つわけでもなく、先生を二人ともクビにしたの。大変な決断だったと思うわ」と振り返る。

赤間アントニオ晃平さん

赤間アントニオ晃平さん(当時80歳、2世)に2010年1月29日に取材した際も「ボクはライフなどの米国の雑誌にも目を通し、戦中から日本の戦況が悪いことは分かっていた。でも学校の中には勝ち組の先生もいて、父兄会も巻き込んで2派に分かれていて、母は間に入ってすごく苦労していた」と語っていた。

赤間エウザさん

晃平さんの妻エウザさんの父は東京植民地の創立者、馬場直(すなお)さんだ。彼は長崎出身で、おじいさんの代からの医者の家。長崎で病院を経営していたが、数年間弟に任せ、マラリアで苦しむ日本移民を助けようと渡伯し、東京植民地を創設することに。ところが戦争が始まり、帰れなくなった。

終戦後、東京植民地の馬場家の自宅には勝ち組強硬派から「風呂に入って身体を清めて待ってろ」との脅迫状が届き、日本人がいるところは危ないと考え、その当時ほとんど日本人が居なかったピラシカーバに逃れたという悲しい経験があり、エウザさんは「日本人を見ると怖いと当時思っていた」と語った。

皆日本戦勝を信じていたが終戦直後に教育界も分断した。その中で、赤間学院は認識派側の教育機関としての道を歩み始めた。そう判断するきっかけになったのは、おそらく戦争中の官憲からの厳しい圧力だった。


1933年創立、開戦で生徒が増加

『財団法人赤間学院創立五十年史』(1985年、同学院)によれば、戦時中には大変な受難時代を迎えていた。

赤間重次(じゅうじ)、みちえ夫妻が1930年に渡伯、1933年にリベルダーデ区コンセリェイロ・フルタード街で裁縫教授所を開設して、すぐにサンパウロ裁縫女学院と改称した創立2年目の34年3月に出された学内機関誌『学友』創刊号の「創刊の辞」には、当時の校長である赤間重次さんが学校開設の動機を次のように記している。

不肖なる私共が本学院を開設するに至った動機を一寸申し上げて見度と存じます。日本出発当初は、私は水産を専攻した関係上、当国の水産業の一斑を視察研究し、傍ら妻に洋裁を研究させて五ヶ年ぐらいで帰国したいと云う漠然とした考えで当国へ参ったのでした。

然し当国の実際を視察し、何等文化的恩恵に浴せず、黙々と働いている奥地在住の娘さん方に接した時、自己の浅学菲才をも省みず「娘さん方のために何かして見たい」と云う感が起こったのでした。幸い妻は曾って女子教育に携わって居たし又私も短期間ながらも教育事業に経験を持って居った関係上、二人でこの事業をやって見やうと云う気持ちが湧いて来たのでした。

そして昭和八年九月、学校とは名ばかりのさゝやかなもの(むしろ塾と言った方が適切かも知れません)を創設したのでした。

赤間みちへさん(同上)

35年9月には実科高等女学校、37年には正式な私立学校としての公認を受けて、サンパウロ女学院になった。1941年にタマンダレー街の校舎に移転。同年12月に真珠湾攻撃となった。

【1942年】1月15~27日、米国が主導してリオで汎米外相会議が開催され、アルゼンチンを除く南米10カ国が対枢軸国経済断交を決議した。ブラジル政府は29日をもって日本を含む枢軸国と国交断交を発表し、日独伊3国の大使館や総領事館の閉鎖、3国人は〝敵性国民〟として取締り対象になった。

これを受けて1月19日からサンパウロ州保安局が敵性国民に対する取締例を公布。日本語で書かれた書類の配布、公の場での日本語使用、許可証なしの旅行や転居が禁止となった。その結果、興味深いことに赤間では《地方の日本人学校が閉鎖命令で閉校の為、本校家庭科に入学する者増加》という状態だった。100人を超える日本人生徒が毎日ここには集まっていたから、ブラジル官憲から目を付けられた。

その2 >>

 

*本稿は、『ブラジル日報』(2023年8月15日)からの転載です。

 

© 2023 Masayuki Fukasawa

ブラジル 日本語学校 語学学校 赤間みちへ 第二次世界大戦
執筆者について

1965年11月22日、静岡県沼津市生まれ。92年にブラジル初渡航し、邦字紙パウリスタ新聞で研修記者。95年にいったん帰国し、群馬県大泉町でブラジル人と共に工場労働を体験、その知見をまとめたものが99年の潮ノンフィクション賞を受賞、『パラレル・ワールド』(潮出版)として出版。99年から再渡伯。01年からニッケイ新聞に勤務、04年から編集長。2022年からブラジル日報編集長。

(2022年1月 更新)

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