ディスカバー・ニッケイ

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第14回(後編) 二世の進学した大学

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ワシントン大学と日本人社会との繋がり

「華大の女学生が日本人街を見学」(1938年8月17日号)

「華大夏季講座の女学生35名が華大YMCAの主催で日本人街を見学した。一行は女学生と言っても夏季講義を受けるハイスクールや小学校の先生達も来り、白髪の老嬢さへ見受けられた。

一行は先ず国語学校を覗き、窪田氏の日本庭園でワンダフルを連発、日蓮教会で奇異の瞳を輝かせ、日本人聖公会に立ち寄ってから、本社を来訪、工場を一巡して奇問を連発、更に回転中の輪転機を見学、北米時事一部買って引揚、メーン街のさがみやに立ち寄り日本菓子を試食、お隣の三輪堂で日本雑誌をひやかし、東洋魚店を覗き込んだりしてからマネキ亭で日本食に舌鼓を打って満足気に引揚げた」

「華大博物館に平安朝時代の衣装」(1938年11月12日号)

「宮武氏は今上陛下即位式に参列した大会典儀官が着用した衣装を秘蔵して居るが、多数の日本人学生を教育しつゝある華大に感謝の意味で寄贈する事になった。(中略)華大では宮武氏の好意に感激し大博物館に国際文化振興会から寄贈し床の間に陳列する事になった」

「華大演劇科に歌舞伎の『隅取(くまどり)』」(1940年3月20日号)

「日本の歌舞伎劇が伝統を誇る独特の化粧術『隅取』に関す参考書類が『日本演劇研究』の資料として華大へ寄贈される事になった」


日本とアメリカの大学生との比較

北米時事社社長の有馬純義は自身のコラム「北米春秋」で、日本とアメリカの大学生について次のように語っている。

「米国の大学生と日本の大学生」(1938年12月13日、14日号)

「日本の大学生はぶらぶら遊んで居る連中が真に多いのである。それは平素は別に勉強せぬでもどうにかやっていけるやうになって居るからである。と云ふのは試験といふものが学年末に一度ある丈けだから、それをネジ鉢巻の試験勉強でどうにかカバー出来たなら及第と云ふことになるのである。(中略)

学校には学生の休憩室とか社交室或は学生クラブの設備はないのだから、学校附近の麻雀ホールや喫茶店が朝から満員の盛況を呈すると云ふ訳である。(中略)

米国の大学生だが彼等も随分遊んで居るやうだが、それでも勉強だけは止むを得ずしてやって居るやうである。殊に州立大学の学制は学生にテストの追撃をやって居るから学生もなかなか楽でない。近年の華大などはそれがひど過ぎると思はれる程である。

学生の遊びも非常に違ふが、それは男女共学と然らざる組織の下に根本的に相違するのは自然であらうと思ふ。その何れがよいかは一口に断言できぬであらうが、日本の大学生が正しき男女交際の自由と機会を持たぬのは今後もっと真面目に考へられていゝ問題ではないかと思ふ」


日米学生会議

日米学生会議は1934年東京で初めて開催された。翌年はアメリカでと、以後毎年、開催地を交替しながら、1940年まで行われた。

第1

「日本と米国の親善は学生から」(1934年8月1日号)   

「7月14日から4日間、日比谷公会堂で日米学生会議がアメリカ側77名、日本側60名が出席して開催された。(中略)この式場の模様は無線で中継放送された。数日間の会議は『日米の親善は学生から』を標語として、経済34名、国際問題50名、政治16名、宗教30名の円卓会議が行われた」

第2

「米国で開く日米学生会議」(1934年11月8日号)

「来夏米国にて開催し日本より100名内外学生出席予定」

 第6

「日米学生会議の代表正式に決定」(1939年7月10日号)

「カリフォルニアの南カリフォルニア大学で8月11日から開催され日本からの男子学生34人,女子学生14人(大学名、氏名記載)」

「日米学生会議に米国側の友情」(1939年7月15日号)

『北米時事』1939年7月15日

「8月11日から一週間ロサンゼルスの南加大学で開催される第6回日米学生会議に派遣の日本代表48名の初顔合わせが国際学友会館で行われた。(中略)

目下微妙な国際関係、為替管理の強化などで一時開催不能とさへ伝へられたのを無事開催の運びに漕ぎつけた際には宿泊料はもとより渡米中の費用一切を出すし、事情の許さぬ代表には小遣ひをだすから『是非、われ等の心の友をよこせ』といふアメリカ側の純真な申し出。

この麗しいアメリカの友情に動かされた外務省の斡旋があって結実したといふ親善裏話が織り込まれて居る。(中略)

アメリカ側からの提示の議題も国際的に不利な立場にある日本の偽らざる言い分を聞き、日本の真の姿を認識しようとの心使いから、従来の同会議の議題の中心であった文学、美術、芸術などは見られず、『今日の世界問題、太平洋に於ける経済問題、同軍備並びに国家安定問題、日米両国に於ける政治情勢並に傾向、同労働状態,同学生問題、同習慣、宗教等』総て実生活に即した問題が取りあげられてゐる」

「学生会議の代表けふ羅府を出発」(1939年8月23日号)

「学生会議の代表、南加大学学生会議18日終了し23日羅府出発。27日羅府万博見学後、30日桑港出発してポートランド経由で来沙、9月17日平安丸で帰国予定」

9月12日に一行がシアトルを訪れた時の講演会の様子が掲載。

「昨晩の学生講演」(1939年9月13日号)

「日米学生会議出席日本代表学生の講演会は昨夕日本館にて開催されたが聴衆400名内外であった。先ず藤平教育部長が司会し学生弁士が交々壇上の人となり日米学生会議の経過や印象、世界と日本米国の印象、時局と女性、我が国の大陸における経済的発展,我が国の戦時経済又は家庭生活の印象などで種々の題下に青年学徒らしい熱のある雄弁を振ひ大喝采を博した」

第7回

「今夏東京で第7回学生会議」(1940年1月31日号)

「華大から6名を派遣。一週間の会議後、米国代表は日本側学生の招待で日本内地及び満洲国を約三週間旅行する。米国代表は7月1日桑港出帆予定」


日米大戦中のワシントン大学

1942年日系人収容が始まる直前に、ワシントン大学内での二世に関する記事「U.W. Campus Nisei Still on Job」があった。日本文に訳すと次の通り。

「ワシントン大学キャンパス二世はまだ仕事中」(1942年2月27日号第1面)

『北米時事』1942年2月27日

「大学当局は今日、次のように述べた。市民はシアトル市内公立学校で二世の解雇を求めている。しかしワシントン大学に雇用されている22人の二世に対する抗議は今の所ない。

二世は、事務職や現場労働者等からなる1700の施設の中の正規職員である。22人のうち6人が教授で1人だけが施設のメンバー。

ヘンリー・エフ・タツミ、第一次世界大戦のアメリカの退役軍人で、今は大学の東洋学科の助教授。他の5人は大学院講師。残りは事務員で大学のいろいろな部署でフルタイムまたはパートタイムのいずれかで雇用されている」

大戦下のワシントン大学在学生に関する記事があった。

「華大在学の二世424名」(1942年3月6日号)

『北米時事』1942年3月6日号

「華大当局の発表によれば今年初頭入学願書を出した日本人学生は435人で内日本国民は僅かに11名。他は皆日系市民である云はれる。(中略)今の所之れ等学生の立退き計画はないと云はれる」


まとめ

1919年頃のワシントン大学の日本人在籍者は少なかったが、以後増加していき、1926年に102名、1939年には250名になり、1942年には435名に達し、その多くがアメリカ生まれの二世だった。また女子学生の在籍率は1908年では0%だったが、1926年には25%、1939年には40%となり、二世女子の進学率が高まっていたことが伺える。アメリカの大学で実力を蓄えた二世達はさまざまな苦難を乗り越え、多方面の分野で卓越した功績を残した。

次回は二世の政治団体として発足した日系市民協会についての記事を採り上げたい。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

参考文献

加藤十四郎『在米同胞発展史』博文社、1908年
『北米年鑑』北米時事社、1928年
竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年

 

*本稿は、『北米報知』に2022年6月1日からの転載です。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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