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生と死、そして次の世代へ ― アラン・ニシオファミリー、慰霊帳を訪問

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ニシオファミリー3世代、左から:アレクサ・タイ、アンジェラ・ニシオ、キラ・ロックウッド、タイ・ロックウッド、エミ・ロックウッド、アラン・ニシオ、イヴォンヌ・ニシオ、ミア・ニシオ、グレゴリー・ロックウッド、エヴァン・ロックウッド、サラ・タイ

3月の冷たい雨が止みロサンゼルスの空が晴れてきた頃、ある家族が三世代にわたり集いました。第二次世界大戦中に強制収容された人々の名を記した聖典「慰霊帳」に印をつけるためです。この集まりを呼びかけたのは、アジア系アメリカ人研究、(日系人の)補償・賠償運動、リトル東京の保全活動、LGBTQの権利、青少年の支援などの取り組みを長年にわたって献身的に尽力し、日系コミュニティでは一目置かれているアラン・ニシオ氏でした。アランは、補償を求める全国連合(NCRR-National Coalition for Redress/Reparations)、リトル東京人権委員会(LTPRO―Little Tokyo People's Rights Organization)、リトル東京サービスセンター、そしてキズナなど、リトル東京の中心的な組織において長年にわたり指導者としての役割を果たしてきました。そして今、アランは最後になるかもしれないと、親族へ集まってもらえるよう声を掛けました。

17年間にわたりアランの身体は、ゆっくりとしかし着実に希少がんに蝕まれてきました。最近その治療を中止すると決意したアランには、その残されたわずかな時間にやりたいことが2つありました。1つは、末期の病の公務員が人生の意味を見出す姿を描いた1952年の黒澤明監督の映画「生きる」のリメイク映画「リビング」を、6人の孫たちと一緒に観ることでした。60年代にこの映画を観た時、アランは深く影響を受けました。そして実際に孫たちと一緒に観る機会をもつことができ、この映画が自分の人生や仕事にどのように影響を与えたのかを伝えることができました。

「私たちは存在していることと生きていることの違いについて話し合ったんです」とアランは振り返ります。「私は人生の最期を迎えようとしていますが、孫たちには情熱を注げるもの、喜びを感じられるもの、そして自分自身以上に気にかけることができるような何かを見つけてほしいと願っています」。これは他人に対し、特にあらゆる不平等に対する行動力や反骨心を育ててくれたコミュニティに対して尽力してきたアランの人生テーマそのものを表しています。

もう1つのやりたいことは、「慰霊帳」に記された祖父ゲンロク・ジョージ、祖母キヌ、父ケイ・キヨシ、母ミツエ、そして姉のジェーン・ミチコ、それぞれの名前の横に印を残し、彼らを追悼することでした。彼らの人生はマンザナー収容所で破壊されてしまいました。そしてその場所は、1945年8月9日アメリカが長崎に原爆を投下したまさにその日にアランが生まれた場所でもありました。80年近くが経った今、アランは妻イヴォンヌ、2人の子供アンジェラとミア、そして6人の孫エヴァン、アレクサ、サラ、タイ、キラ、エミとともに、このマンザナーに収容された6人のニシオファミリーの名前の横に印を残しました。

慰霊帳に印をつけるアラン・ニシオ

孫たちがそれぞれの名前に印を押すと、アランはこの機会にと自分がこの世を去ったらすぐに忘れ去られてしまうであろう家族の歴史を孫たちに語り始めました。最初に祖父のことについて話しました。祖父は家族農場の税金還付金を得ようと広島から移住し、最初の数か月は鉄道労働者として過酷な労働をしました。

ゲンロク・ニシオ (左から4番目) と鉄道労働者たち

それから祖母について、懐かしく思い返しながら話しをしました。祖母は、何千人という写真花嫁の一人として、まだ一度も会ったことのない男性と結婚するためアメリカに渡って来ました。アランが記憶している祖母は血気盛んな女性で、お酒やタバコといった愚行や日本の花札などの娯楽をアランに教えてくれた人でもありました。

曽祖父のゲンロク・ジョージ・ニシオの名前に印を押すエヴァン・ロックウッド

第二次世界大戦からその後にかけて家族に起きた出来事の話が進んでいくと、話はしだいに暗い影を落とし始めました。戦争が両親や姉に壊滅的な影響を与えたことに触れる中で、アランは日系アメリカ人の家庭ではほとんど語られることのない事実を不思議と話し始めました。

ケイ・キヨシ・ニシオ、1938年頃

アランは、両親が南ロサンゼルスで食料雑貨店を経営していた当時の様子や、商品を破格的に安い値段で販売するよう強制されていたこと、また立ち退き命令が急遽下ったことなどを説明しました。店の商品を倉庫に残したまま立ち退かなければならず、戦争が終わって戻ってみると倉庫は荒らされ、実質ゼロからのスタートを余儀なくされました。

しかし、物質的な財産を失うよりもっと辛かったことは、アランのいう家族の「希望と夢」が失われたことでした。アランの父親は戦後、お酒に手を出すようになりました。おそらく好きでもない庭師の仕事をする日々に少しでも目を背けたいという気持ちがあったからだろうとアランは話していました。子どもの頃は父の庭師の仕事を手伝っていたというアランは、無口な両親と会話を交わすことがほとんどなかったそうで、沈黙という遺産を孫たちには引き継がせまいと、父親のアルコール依存症についても包み隠さず話しました。

祖父のケイ・キヨシ・ニシオの名前に印をつけるサラ・タイ

次にアランが語ったのは、アランの姉ジェーン・ミチコについてでした。ミチおばちゃんは、ほとんどの孫たちが会ったことがあるにもかかわらずあまり親しくすることはありませんでした。というのも、セラピストから処方された精神安定剤に長い間依存していたため、親戚の集まりにはめったに顔を出すことはなく、特に晩年は親戚と疎遠になっていたからです。

アランはどうして姉がそんな状況に陥ってしまったのかを孫たちにもっと知ってもらいたいと思いました。真珠湾攻撃のわずか数週間前に生まれたがために人生の最初の4年間を僻地のぼろぼろのバラックで暮らさなければならなかった姉。このことは姉の人生に間違いなく影響を及ぼしたと力説しました。

「私は孫たちに姉のことをもっと理解してもらいたかったし、いろいろな意味で何かに依存せざる負えなくなってしまった姉が、どう人生を狂わせてしまったのかということを少しでも知ってもらいたかったんです」。アランは、依存症や精神疾患が長い間日系アメリカ人のコミュニティの間でタブーなものとしてひた隠しにされてきたと強く感じていました。皮肉にもアランの祖父は禁酒法が施行されていた時代に、違法に酒を飲むために人々が集まる隠れ酒場をシアトルに作りお金を儲けていました。祖父の娘婿は、密造酒を飲むための隠し部屋を作り、次第にアルコール依存症になりました。その結果、家族は崩壊し、彼らの人生は台無しになってしまいました。こうした問題は家族の誰かが明らかにしようとしない限り世間に知られることはないものです。

普通は人に知られまいとする健康状態について、アランは話したくないと思ったことは一度もありません。癌がその一例です。アランは自身の癌のことを世間に知ってほしいと思っています。そして癌は自分に「誰でもいつかは必ず死ぬ運命だということを教えてくれた」と感じています。7回に及ぶ手術や4回にわたる化学療法、また3回の放射線治療をしながらの闘病生活は決して楽なものではありませんでした。しかし、アランは死と向き合い、死は恐れるものではないと断言します。「どのくらい生きるかなんて自分ではコントロールできません」。そしてアランはこんな象徴的な格言を添えました。「私たちがコントロールできるのは、与えられた時間の中で何をするか、そしてどう生きるかだけなのです」と。 

最後に、結婚から55年を迎え誰よりもアランをよく知る妻のイヴォンヌは、6人の孫たちにそれぞれ祖父についてどのようなところを尊敬しているか一言伝えるように勧めました。

最年長のエヴァン(18)に始まり、アレクサ(18)、サラ(17)、タイ(16)、そして双子のキラとエミ(13)がそれぞれ祖父を讃える言葉を伝えると心から喜びの涙が溢れ出しました。祖父の「人生で直面するどんな状況にも勇気を持って立ち向かう姿勢」、「世の中のために貢献する」方法を教えてくれたこと、「正しいことをする強さ」、そして純粋に「誰に対しても優しいこと」などを挙げた。それぞれの孫たちは、確実に受け継がれてきた優しさと強さをもって、これからも祖父の教えを受け継いでいくということを誓った。

アラン・ニシオの孫、左からアレクサ、サラ、エヴァン、タイ、キラ、エミ

時とともに移りゆく風のように、慰霊帳によって形となった苦しい過去はこの3月の午後、大きく変わりました。アランの大好きなジョン・レノンの曲「イマジン」の旋律が静かに流れ部屋を暖かく包み込むと、孫たちは未来の希望そのものとなったのです。

 

© 2023 Sharon Yamato

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このシリーズについて

このシリーズでは、「慰霊:第二次世界大戦中の日系人強制収容の全米記念碑」プロジェクトの一環として、全米75か所におよぶ強制収容所に収容された12万人を超える日系人の名前を記録した3部からなる記念碑の一つである聖典「慰霊帳」を取り上げます。またこのシリーズでは、強制収容に直接繋がりのある方々へのインタビューを通して彼らに敬意を表すとともに、このプロジェクトが彼らの人生に与えた影響について考察していきます。

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執筆者について

シャーロン・ヤマトは、ロサンゼルスにて活躍中のライター兼映像作家。日系人の強制収容をテーマとした自身の著書、『Out of Infamy』、『A Flicker in Eternity』、『Moving Walls』の映画化に際し、プローデューサー及び監督を務める。受賞歴を持つバーチャルリアリティプロジェクト「A Life in Pieces」では、クリエイティブコンサルタントを務めた。現在は、弁護士・公民権運動の指導者として知られる、ウェイン・M・コリンズのドキュメンタリー制作に携わっている。ライターとしても、全米日系人博物館の創設者であるブルース・T・カジ氏の自伝『Jive Bomber: A Sentimental Journey』をカジ氏と共著、また『ロサンゼルス・タイムズ』にて記事の執筆を行うなど、活動は多岐に渡る。現在は、『羅府新報』にてコラムを執筆。さらに、全米日系人博物館、Go For Broke National Education Center(Go For Broke国立教育センター)にてコンサルタントを務めた経歴を持つほか、シアトルの非営利団体であるDensho(伝承)にて、口述歴史のインタビューにも従事してきた。UCLAにて英語の学士号及び修士号を取得している。

(2023年3月 更新)

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