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移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民

清野敏幸さん—その6:除隊、就職、結婚

1963年、パンアメリカン競技大会でのチームUSA。敏幸は中央。

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この間、敏幸の人生は大半が柔道であったとはいえ、それだけに占められていたわけではない。1960年の3カ月の日本滞在では、大切な出会いもあった。

「講道館は週末が休みだったので、神戸のいとこのところに行ってこようと。その時に(のちに妻となる)みどりのお兄さんに『妹が京都で看護婦学校に行っているから会って来てくれ』と言われたんです」。そして、ちょうどその週末に会った神戸商業高校時代の友人と共に、京都を訪れる。

その時のことを思い返して、「連絡をとって『お前の兄貴から会ってくれというからまあ行くけど』と行って、京都のあの橋のところに連れていってくれたよね?」と敏幸が聞くと、「渡月橋?」とみどりが答える。「うん、あれを歩いて向こう側まで行った。写真を写したよね」と敏幸。

それから二人の間で手紙のやりとりが始まる。「結局遠距離交際ですよね。基地で暇があるから手紙をせっせと書いて寄越すんです。報告するのが好きで」とみどり。「私は学校も忙しいし、実習もあるので、3回に1回くらいしか返事をしなかったと思うのだけど」。

「一回だけ電話したことがあったよね」と敏幸。「シアトルに空軍の試合に行った時が、ちょうど1962年の万博に合わせてスペースニードルができた直後だったんです。ずっと上まで上がっていったら電話機があるので、ここから電話ができるのかと思って、日本に電話をかけたんです。『今、どこから電話しているのかわかる?』なんて言って」。1分の電話で、2022年現在の通貨で10ドル以上した時代である。

1960年の後、次に二人が会ったのは敏幸が再び講道館を訪れた1961年。そして3度目の講道館訪問であった1963年には結婚の話が進んでいく。

USナショナルチャンピオンシップの階級別で優勝した敏幸が、グランドチャンピオンを制したヘイワード・ニシオカを祝福し、この後、日本で結婚すると報じる記事。

またこの1963年には、翌1964年の東京オリンピックで柔道が公式競技に入るのを前にして、プレオリンピックの親善試合が開催される。大阪でも親善試合があり、そこに敏幸も出場。当時は広島で開業医の父の手伝いをしていたみどりも、仕事で日本に帰国していた敏幸の両親も応援にかけつけた。その時に、敏幸の父が結納を準備して、広島のみどりの実家を訪れたという。

「で、僕は来年オリンピックに来るからと、結婚式は翌1964年ということにしたら、オリンピックに来られなかったんです」。ニューヨークで開催されたオリンピック予選で敏幸は惜しくも2対1の判定負けをしてしまう。残念ながらオリンピックには出場できなくなったが、補欠としてチームに残って練習を続けた。

この間の1964年6月に、敏幸は空軍を除隊。9月までサンノゼでのオリンピックチームの練習に参加した後、ロサンゼルスに戻っていた家族と合流する。

「父はルービィで2年くらいストッキングの仕事をした後、テネシーに行って、真珠の核になる貝を集めて日本に送る仕事を始めました。父の兄弟ではそんなふうにあれこれ起業をしたのは親父だけですね。英語ができたのが一つの理由でしょうか。とても先進的な考え方の人でした」。

ロサンゼルスの空港近くのエルセグンドの家族の家に戻った敏幸。「寝るのは家族の家があるわけですが、とにかく仕事がないので、何か仕事を探さないといけないなと」。

今のようにインターネットで仕事を探す時代ではない。敏幸はロサンゼルス空港に行き、日本航空(JAL)のカウンターを直接訪れ、仕事がないかどうか尋ねたと話す。そうすると「上に事務所があるから、そこに行ってみて」と事務所に送られる。そこで紙を渡され必要事項を記入して返すが、すぐには結果はわからないというので、向かいのヴァリグ・ブラジル航空でも仕事がないかと尋ねた。

その一週間後、ヴァリグ・ブラジル航空から試験を行うと電話があった。また、そうこうしているうちにJALからも「あと1週間くらいしたら空きが出るから、もし仕事がほしいんだったら、そこに入れるよ」と電話がある。そして敏幸は1964年10月からJALの空港カウンターに勤めることになったのである。「その頃のJALのLA便は一日一便。ホノルル経由で、夜に着いて朝に出る便でした」。

JALに勤めて始めて6カ月ほど経った時、サンフランシスコで柔道の全米の試合、USナショナルチャンピオンシップが開催。敏幸は、その試合の後、日本に行って結婚式を挙げる予定であった。

その全米大会では階級別で見事に優勝したものの、続く4階級のグランドチャンピオンの試合で、膝を痛めてしまうのである。その翌日、敏幸はフランシスコを発ってJALの飛行機で日本に向かった。

敏幸とみどりの結婚式。1965年4月。

「みどりが迎えに来てくれたんですけれども、僕は片足をひきずりながら降りてきて。その翌日の結婚式では正座もできないから、脚をデンと前に出すしかなくて(苦笑)」。二人は新婚旅行で敏幸の両親の故郷である鹿児島を訪ね、新婚のみどりもアメリカでの生活を始めることになる。

ふと気になって、この結婚の時、広島出身のみどりさんの被爆の話をされたのですか、と聞くと、「知らなかったですね」と敏幸。「隠していたわけでもなかったですし、隠さなきゃいけないという意識もなかったですし、敏は被爆が何かも知らなかったと思います」とみどり。

幸いなことにみどりは大きな病気を患うことなく、今も米国広島・長崎原爆被爆者協会(ASA)の理事として2年に一度の被爆者検診をはじめ、さまざまなイベントの準備に奔走している。

続く >>

 

© 2022 Masako Miki

Japan Judo Kibei Nisei Toshiyuki Seino

このシリーズについて

「移民」というと、ある国から別の国へと移住したきり、のようなイメージを持たれる方もいるかもしれない。それぞれの国ごとの移民史では、そこに定住した人々の物語は記録されていきやすいが、行ったり来たり、また国や地域をまたいで移動し、生きていく人々の物語は、そのはざまの文化と言語の中で見えづらくなることもある。

ロサンゼルスの日本人コミュニティーと日系人コミュニティーの両方で暮らす中で、また全米日系人博物館での仕事を通して、「二世」「三世」「帰米」といった歴史的によく使われる言葉に付随する典型的なイメージとは異なった、それぞれの個人ごとの豊かな物語を持つ人々に出会う機会が数多くある。このシリーズでは、そうした環境の中で出会った、主に日本語を第一言語とする戦後の帰米・日系移民の方々の物語を記していきたいと思う。