三木 昌子

(みき・まさこ)

三木昌子は、全米日系人博物館・日本語渉外担当として、日本人や日本企業に向けてのマーケティング、PR、ファンドレイジング、訪問者サービス向上などを担っている。またフリーランスの編集者、ライター、翻訳者でもある。2004年に早稲田大学卒業後、詩の本の出版社、思潮社に編集者として勤務。2009年渡米。ロサンゼルスの日本語情報誌『ライトハウス』にて副編集長を務めた後、2018年2月より現職。

(2020年9月 更新)

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移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民

清野敏幸さん—その7:JALでの日々、そして柔道名誉殿堂入り

その6を読む >> 空港勤めの仕事は、週末がないこともしばしば。そして1966年には息子が誕生し、敏幸、妻のみどりの生活は一気に忙しくなっていく。そんな中でも敏幸は時間があれば庭に出て一人で柔道の練習を続けていたという。1967年にはソルトレイクシティーで世界選手権大会があり、アメリカ代表として出場した敏幸は4位に入賞する。「最後に大会に出場したのは1970年ですね。その時は僕も30歳になっていました」。最後のUSナショナルチャンピオンシップでは、階級別で2位と有終の美を飾った。その後は各地の道場で柔道の先生として後進の指導にあたってきた。 一方で、カウンター業務から始めた日本航空(JAL)の仕事では、日米両方の言語と文化に精通した敏幸はめきめきと頭角を表し、重要な役職を任されていくことになる。1978年には、日本人ブラジル移住70周年を記念し、当時の皇太子同妃両殿下がブラジルをご訪問になる。その訪問に際してはJALの飛行機2機がチャーターされたが、行く先々で待機し、訪問が滞りなく進むよう手配するスタッフの一人に敏幸も選出される。 「僕はロスからマイアミに飛んで、そこからブラジルに。飛行機が着く前に先回りして、機内食などを準備するのです。サンパウロではたまたま僕の母の家族で移民で行っている人がいて、そこに行って一緒に食事をしたのを覚えています」。 その皇太子同妃両…

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移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民

清野敏幸さん—その6:除隊、就職、結婚

その5を読む >> この間、敏幸の人生は大半が柔道であったとはいえ、それだけに占められていたわけではない。1960年の3カ月の日本滞在では、大切な出会いもあった。 「講道館は週末が休みだったので、神戸のいとこのところに行ってこようと。その時に(のちに妻となる)みどりのお兄さんに『妹が京都で看護婦学校に行っているから会って来てくれ』と言われたんです」。そして、ちょうどその週末に会った神戸商業高校時代の友人と共に、京都を訪れる。 その時のことを思い返して、「連絡をとって『お前の兄貴から会ってくれというからまあ行くけど』と行って、京都のあの橋のところに連れていってくれたよね?」と敏幸が聞くと、「渡月橋?」とみどりが答える。「うん、あれを歩いて向こう側まで行った。写真を写したよね」と敏幸。 それから二人の間で手紙のやりとりが始まる。「結局遠距離交際ですよね。基地で暇があるから手紙をせっせと書いて寄越すんです。報告するのが好きで」とみどり。「私は学校も忙しいし、実習もあるので、3回に1回くらいしか返事をしなかったと思うのだけど」。 「一回だけ電話したことがあったよね」と敏幸。「シアトルに空軍の試合に行った時が、ちょうど1962年の万博に合わせてスペースニードルができた直後だったんです。ずっと上まで上がっていったら電話機があるので、ここから電話ができるのかと思って、日本に電話をかけ…

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清野敏幸さん—その5:アメリカ空軍に入隊

その4を読む >> 敏幸の1959年以後を辿る前に、いったん敏幸の家族のストーリーを辿っておこう。1956年にアメリカに戻ってきた敏幸だが、父母や弟妹らも翌1957年にロサンゼルスに戻っている。この頃、1952年の移民法改正によって日本からの移民は年間185人に限って許可されていたが、市民の家族の呼び寄せはその人数制限の対象外であった。 「父は日本でナイロンストッキングの原料を輸入して製品化する仕事をしていました。そのストッキングの材料の製造元に行って、そこで自分の会社を作って仕事をするというので、ロサンゼルスからサウスカロライナに行ったんです。でも一人じゃ大変だから一緒に来いと、僕と下の弟と父の3人で車を運転して行きました。そのルービィという町でストッキングを完成品に近いところまで作って日本に送って売るようにしたのです」。 ルービィはノースカロライナとの州境近くにあり、今も人口が350人ほどの小さな町である。「ルービィは、ほんとうに田舎町でした。人口のほとんどが白人で、アジア人どころか黒人もいませんでした。父の会社では何人かの人を雇っていましたが、小切手に署名をする自分の名前が書けるだけで、字が書けない人も結構いました」。 その二、三カ月後、ロサンゼルスの残りの家族も合流し、家族7人が久しぶりにルービィで一緒に暮らし始める。「その時、僕は18歳で、兄貴が19歳。大学に行…

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移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民

清野敏幸さん—その4:アメリカに帰国し、柔道を始める

その3を読む>> 2週間の船旅の後、ロサンゼルスのサンペドロに到着。そこから迎えの車でデンバーに到着したのが1956年6月のことである。1週間ほど父の友人宅に世話になった後、敏幸はアメリカ人の白人の家にスクールボーイに入った。スクールボーイとはかつて日系移民の学生らがよく行っていた住み込みのいわゆる家政婦のような仕事で、アメリカ人の家で部屋を間借りし、皿洗いや掃除、子守り、料理など家の仕事をして少額の給金をもらい、学校に通うものであった。 敏幸のスクールボーイ先の近所には、父の兄の子である、いとこの健一郎が同じくスクールボーイをしていた。彼は敏幸の津貫での同級生で、同じように帰米であった。 「僕がアメリカに行く、デンバーに行くと手紙を出したときに、彼が『俺は今柔道をやっている。デンバーに来るのだったら柔道着を買って持ってこいよ』と。それまで高校では水泳をやっていたけれど、柔道はやったことがなかったんです。でも柔道部の人たちが練習するのを見て面白そうだなと思っていたから、柔道着を持って行ったら一緒にやれるんだな、と思ったんです」。 それが敏幸の柔道との出会いだった。「二世の方がデンバー道場をやっていて、結構広いところで、日系人がたくさんいました。白人も通ってきていて、道場全部で40、50人が通っていたと思います」。 しかし、デンバーでの生活はそれほど長くは続かなかった…

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移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民

清野敏幸さん— その3:ツールレイクから帰還船で日本に

その2を読む >> 1945年末、オレゴン州ポートランドから、清野一家は横須賀へと向かうゴードン船に乗り込み、父母の故郷である鹿児島県の津貫へと向かった。戦後の日本での新たな生活は十分な食糧もなければ、田舎にはいまだ水道も通っておらず井戸から水を汲むような生活だった。敏幸はここで津貫小学校の2年生に進学する。 「確かツールレーキでは学校は日本語だけでしたので、帰って2年生にすぐに入りましたが、日本語はあまり不便しなかったですね」。 全米各地の収容所にはアメリカの公立学校があったが、ツールレイク隔離収容所では1943年に収容者らの資金によって、日本の教育に準じた国民学校が作られ、そこで日本語で教育が行われた。敏幸もそこに通ったのだろう。 「ただ僕の日本語は鹿児島弁じゃないですし、アメリカから来た二世だってわかって、それで結構いじめられました」。 戦後すぐ、自分たちの国が負けた相手国から来た少年に、子供たちがどれだけ残酷であったか、想像に難くない。とはいえ、負けてばかりではなく、妻のみどりによると「昔の同級生からの話だと、いじめ返した方が強かったという話です」とのことである。 日英両語に堪能であった松吉は津貫から1時間ほどのところにあった米軍基地で仕事を見つけ、それで生計を立てる暮らしが2、3年続いた。その後、鹿児島で小さなレストランを経営したり、親戚の精油工場を…

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