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移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民

清野敏幸さん—その5:アメリカ空軍に入隊

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敏幸の1959年以後を辿る前に、いったん敏幸の家族のストーリーを辿っておこう。1956年にアメリカに戻ってきた敏幸だが、父母や弟妹らも翌1957年にロサンゼルスに戻っている。この頃、1952年の移民法改正によって日本からの移民は年間185人に限って許可されていたが、市民の家族の呼び寄せはその人数制限の対象外であった。

「父は日本でナイロンストッキングの原料を輸入して製品化する仕事をしていました。そのストッキングの材料の製造元に行って、そこで自分の会社を作って仕事をするというので、ロサンゼルスからサウスカロライナに行ったんです。でも一人じゃ大変だから一緒に来いと、僕と下の弟と父の3人で車を運転して行きました。そのルービィという町でストッキングを完成品に近いところまで作って日本に送って売るようにしたのです」。

ルービィはノースカロライナとの州境近くにあり、今も人口が350人ほどの小さな町である。「ルービィは、ほんとうに田舎町でした。人口のほとんどが白人で、アジア人どころか黒人もいませんでした。父の会社では何人かの人を雇っていましたが、小切手に署名をする自分の名前が書けるだけで、字が書けない人も結構いました」。

その二、三カ月後、ロサンゼルスの残りの家族も合流し、家族7人が久しぶりにルービィで一緒に暮らし始める。「その時、僕は18歳で、兄貴が19歳。大学に行った方がいいというので、50マイルくらい離れたところの大学に行き始めたのですが、僕は大学に行ってもそんなに勉強するわけじゃなかったし、ここにいたって柔道はできないので、父に『柔道をやりたいからロスに行ってもいい?』と訊いたら、『お前がそこまで言うんだったら良いよ』というので、僕だけ6カ月くらいしてからロサンゼルスに戻ったのです」。そして、敏幸は1958年に再びハリウッド道場に戻り、近くのフジヤマーケットという日系人経営の小さなスーパーでパートタイムの仕事をしながら、柔道に打ち込んでいくことになる。

さて、1959年に戻る。この年、サンノゼで開催された全米大会には米空軍のチームが参加しており、その監督が敏幸にアプローチするのである。「清野、お前いくつだ?」と訊く監督に、敏幸が「19だけど、どうして?」と返答すると、「学校に行っているのか?」と再び尋ねる。「シティカレッジに行っている」と言うと、「成績はどうだ?」と質問が続く。「変なことを聞くなあと思ったのですが、『僕はアメリカに来て3年足らずだし、英語もあまりできないから成績も良くない。ABCDのCくらいだと思う』と返事をしたのです。そうすると、『じゃあ、お前徴兵されるよ』と言うんですよ。あの頃は徴兵制度があって、徴兵されると陸軍に2年従軍しなくちゃいけなかったのです」。そして、その空軍の監督はこう続けた。「空軍に来ないか?」と。

しかし空軍に入れば最低4年の従軍である。それだけの歳月を軍で過ごしたくないと返事した敏幸だったが、監督の「空軍でパイロットに護身術を教える先生を探している。もし空軍に入るなら4年だが、その間に日本に送って講道館で学ばせてやる」と説得される。空軍は講道館と契約しており、毎年何人かを送って護身術を学ばせ、帰国して他の軍人らに教えていたのである。「日本に行けるのだったらいいなあと思ったんです」。

空軍に入隊した敏幸を待ち受けていたのは、まずはテキサス州で3カ月のベーシックトレーニングだった。このベーシックトレーニングでは一悶着あったと敏幸は話す。

「ある時、別のトレーニング中の兵士に『ジャップ』と呼ばれたことがあったので、頭に来て『お前、今なんて言ったんだい?』と訊いたら、『ジャップにジャップと言って何が悪い?』と返事をするから、『俺はアメリカ人だ。ジャップじゃない』と言ったら、首か何かを握られた。それで柔道をやっているから、その体の大きいやつをダッと投げたんです。そうしたらびっくりしちゃって『すまない、すまない』と。空軍は日本人というのはあまりいないんですよ。だからそういうのがやっぱりありましたね」。

その後、敏幸はアリゾナ州のツーソンにあるデイビスモンサン空軍基地へ。それから6カ月ほどして、日本行きの命が下る。「ほかの空軍基地からも合計で14、15名がトラビースシティという空軍基地から、飛行機で東京郊外の府中米軍基地に行きました」。

そのあと3カ月にわたり、講道館で20名近くの空軍のメンバーが、泊まり込みで合気道、柔道、空手、逮捕術を学ぶことになった。「月曜日から金曜日まで毎日、専門家が来て教えてくれるんです。空軍で日本語を話せるのは、私ともう一人、宮崎さんという府中基地に駐在している、たまたま柔道をやっている人がいて、二人で通訳をしながら教えてもらいました。彼も帰米でした」。

デイビスモンサン空軍基地司令官よりトロフィーを授与。1962年。

3カ月集中的に学び帰国した後は、パイロットに護身術を教えた。「戦争になってどこかに撃ち落とされた時のために、自分の身は守れたほうがよいから、と」。このデイビスモンサンの基地で、そうした護身術を教えていたのは敏幸一人。無論、一緒に柔道をする相手もいなかった。「それで、ツーソン市に柔道をやっている人がいるというのを聞いて、行ってみたら、もともとロサンゼルスから来た人がそこで教えていて、僕の名前を知っているんですね。彼は西南道場で柔道を習った後、ツーソンに自分の道場を開けたのですが、僕も西南道場によく練習に行っていたんです」。

そのツーソンの道場に4年ほど通って練習をし、教えたりしながら、全米各地の柔道大会に出場。空軍基地のトーナメントでは、4つの階級別で戦った後、全ての階級の優勝者4人で争うグランドチャンピオンの試合があった。70kg級の敏幸は空軍にいた5年の間その試合で優勝し続けた。

跳腰を決める敏幸。1961年、シカゴで開催されたUSナショナルチャンピオンシップで優勝。

その強さの秘訣を聞くと、「柔道ばっかりやっていましたね。やっぱり投げるのが面白い。練習も人並み以上にやって、一人で家にいるときも壁で練習して」と敏幸。多くの場合、勝負を決めたのは跳腰か内股だった。

「僕の得意技はみんな知っているので、跳腰を教えてくれと柔道クリニックによばれて教えるのですが、柔軟性がないとできない技なんです」。

長年にわたって厚い柔道着を掴み、前に出たり入ったりと練習を続けてきた結果、曲がったままの敏幸の手と足の指には、柔道への情熱がほとばしっている。

続く >>

 

© 2022 Masako Miki

Japan Judo Kibei Nisei school boy Toshiyuki Seino

このシリーズについて

「移民」というと、ある国から別の国へと移住したきり、のようなイメージを持たれる方もいるかもしれない。それぞれの国ごとの移民史では、そこに定住した人々の物語は記録されていきやすいが、行ったり来たり、また国や地域をまたいで移動し、生きていく人々の物語は、そのはざまの文化と言語の中で見えづらくなることもある。

ロサンゼルスの日本人コミュニティーと日系人コミュニティーの両方で暮らす中で、また全米日系人博物館での仕事を通して、「二世」「三世」「帰米」といった歴史的によく使われる言葉に付随する典型的なイメージとは異なった、それぞれの個人ごとの豊かな物語を持つ人々に出会う機会が数多くある。このシリーズでは、そうした環境の中で出会った、主に日本語を第一言語とする戦後の帰米・日系移民の方々の物語を記していきたいと思う。