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米国で生きる日本人の選択

駐在員としてカナダ、アメリカに暮らした増田義彦さん

ノースカロライナで再びアメリカ駐在生活がスタート。

カナダ永住決断後に…

2014年までカリフォルニアに駐在し、JBA(ジャパンビジネスアソシエーション)の会長も務めた増田義彦さん。カリフォルニアから東京に戻って5年ほど経った頃の増田さんが、日本の新設大学で特別講師を務めることになり、学生向けの紹介記事を書くために取材したことが知り合ったきっかけだった。最初から増田さんの印象は鮮やかだった。私がメールで取材を申し込むと、「今、ニューヨークの空港で乗り換えのために待機中なので、電話で取材を受けられます」と、彼はその場で取材に応じてくれたのだ。多くの駐在員を取材してきたが、増田さんの型に嵌らない柔軟な姿勢は飛び抜けていて「駐在員らしからぬ」ものを感じた。

その後、SNSを通じて、増田さんが再びアメリカに渡ったことを知った。新天地はノースカロライナ。私はなぜアメリカに戻ってきたのかを含めて、彼が駐在員の目からアメリカという国をどう見たのか、また最終的にどこに落ち着こうとしているのかを改めて聞くために、zoomでノースカロライナの増田さんと繋がった。

増田さんが最初にアメリカに来たのは1979年。ボストンに短期留学してきたそうだ。ちなみに、留学を前に神田外語学院で英語を学んだ際に、後ろの席に座っていたのが後の妻となる逸子さんだった。ボストンで3カ月を過ごし、「いつかまたアメリカに戻って来たい」と思ったが、それが実現するまでには20年近くの月日を要した。大学卒業後に大手IT企業に入社したが、なかなかアメリカへの赴任の機会は訪れず、最初の海外駐在の地は90年のカナダのトロントだった。

「現地に子会社を作る目的でした。トロントには97年まで駐在しました。それまで日本では24時間働く覚悟でやっていました。でも、カナダに行ってみると、現地の人たちは本当に自由で人間らしかった。トロントは大都市なんですが、15分ほどで自然に溢れた、まるで高尾山のような(笑)渓谷もあって、住むにはすごくいい所でした。それからカナダは人種のモザイクと評されるように、いろんな文化の人たちが世界中から集まっているんだけれど、それぞれがコミュニティーを形成して共存しています。だから外国人にとって居心地がいいんです。すっかり気に入って、トロントでは子どもが2人生まれました。家を購入して永住権も取って、カナダに永住しようと思っていたんです」。

97年に帰国命令が出ると、ひとまず増田さんは妻と子どもたちを残して単身で帰国した。しかし、その時に妻が3人目を妊娠していることが分かり、幼い子どもを2人育てながらカナダで出産することは大きな負担になると、最終的に家族で日本に引き揚げる決断を下した。

「アメリカは自分に合っている」

そして、増田さん一家がアメリカの土を踏むのは2004年、シリコンバレーにある子会社に赴任して来た時だ。「パパと一緒に皆でアメリカに行こう、と言うと、当時10歳だった上の娘は泣き出しました。真ん中の7歳の息子、5歳の下の息子もつられて泣いてしまいました。妻も胸中は複雑だったと思います。最初にトロントに行く時、彼女はコピーライターとして仕事が面白くなっていた矢先だったのに断腸の思いでそのキャリアを捨てたのです。さらにトロントを去る時も彼女はメープルシロップの輸出のビジネスを軌道に乗せていました。その後、デザイン会社の企画部門に携わり新しいキャリアと積んでいたのに、それを中断してアメリカに行くことに。彼女が新たなキャリアを築くたびに、夫である私の都合でそれをダメにしてしまうことに対して申し訳なく思っていました」。それでも、逸子さんは家族で渡米することを選択した。

その後、5年間過ごした北カリフォルニアの印象を聞いた。「住むには申し分ない土地でした。学校のレベルも高く、小学生だった子どもたちに取って最初は苦労したと思いますが、馴染んでくれて本当に良かったです」。

そして、通常なら一旦日本に帰国するプロセスを踏むところを、増田さんは09年にオレンジ・カウンティーの別の子会社に異動となり、カリフォルニア州に留まることになった。「天気は良いし、ビーチは近いし、開放的で自由でいい所でした。走ったり泳いだりするのが大好きな私にいは最高の場所。いい暮らしをさせてもらいました」。仕事の面でも、効率的に働く現地社員の姿に影響を受け、「ここは自分に合っている。ずっとここにいたいな」という気持ちが芽生えたそうだ。

しかし、会社員の宿命で14年に帰国の辞令が下りる。家族会議の結果、日本の高校に通うために先に帰国していた長男以外の2人の子どもと妻はオレンジ・カウンティーに残ることを選んだ。妻の逸子さんはアレクサンダーテクニックという心身技法を習得し、ハリウッドの俳優をクライアントに抱えるほどにまでなっていたのだ。

増田さんは東京で長男との二人暮しを5年間続けた。そして、20年の父親の死が大きな転機となった。「父とはじっくり話したことがなかったのですが、闘病中の父に『ずっと(息子の増田さんが)アメリカ暮らしで孫もそばにいなくて寂しかった。残していく母親のことを頼む。東京の家を二世帯住宅に建て替えて、そこで一緒に暮らしてほしい』と言われました」。父親との約束を果たすため、増田さんは杉並の実家を建て替え、「もうアメリカに戻ることはないだろう」と赴任中に取得していた米国永住権も弁護士に依頼して放棄した。

「ところが永住権放棄の手続きが終了した直後、会社からアメリカに行ってくれないか、と言われたのです」。日本で母の面倒を見なければならないから断ろうと思った増田さんに、父親の生前、介護のために2人の子どもをアメリカに残し、日本に戻っていた逸子さんが「私がお母さんの面倒を見るから、あなたはアメリカへ」とまたしても背中を押してくれたのだという。

2017年ラスベガスでの家族写真。

こうして、21年に増田さんは再び駐在員としてノースカロライナにやって来た。「現実に起こる事というのはコントロールできませんね。でも、私はきっと会社でも知らず知らずに『アメリカに戻りたい』とアピールしていたのだと思います。SNSを見た友達には、日本にいると私はほとんど投稿しないけど、アメリカでは頻繁に投稿し、しかも私の笑顔がすごく明るいと言われます。自分で気付いていないけど、きっとアメリカがしっくりくるんでしょうね。でも、日本も以前に比べると窮屈なところがなくなって、随分居心地が良くなりました。一方、アメリカは以前に比べて余裕がなくなっているように感じます」。

予定されている数年のアメリカ生活の後、果たして増田さんの落ち着く先は東京になるのか、それとも…。

 

© 2022 Keiko Fukuda

California Canada expats shin-issei United States

このシリーズについて

米国と日本の間で生きる日本人に、永住権取得や日本への引き揚げなど、人生の選択についてインタビュー。