「海外に合っているかもしれない」
藤田喜美子さんには二つの顔がある。アメリカで35年間、音楽教室を運営してきた経営者の顔、そしてもう一つは2023年まで30年にわたりボランティアをし、10年間会長を務めたオレンジ郡日系協会をはじめ、数々の団体の活動に携わる日系社会のコミュニティーリーダーとしての顔だ。藤田さんが渡米したのは1987年。英語力向上を目的にニューヨークに渡ったが、そこで日系三世の男性と出会って結婚、それから日本に戻ることはなくニューヨークから、夫の出身地であるロサンゼルスに移って現在に至る。
「私が高校を卒業した頃、当時はまだエレクトーンを演奏できる人があまりいなかったんですね。それで、エレクトーン講師と演奏者の資格を取って、大阪心斎橋の教室で教え始めました。その後、テレビ番組でもエレクトーンの演奏を依頼されて、人気番組に出演して弾いていました。
さらに、ヤマハが海外でもエレクトーン教室を広めたいということで、私はオーストラリアに1年間駐在して、講師養成クラスを指導していました。その時に、それまで日本にはない開放感を感じて、自分は海外に合っているかもしれないと思ったんですね。でも、オーストラリアは物事が進むテンポが遅すぎて、そこはちょっと合わないかな、と。その後、英語力を付けるためにニューヨークに行ったのですが、ニューヨークの(スピード感ある)テンポは私にぴったりで気に入りました」
「日系人について知らなかった」
ニューヨークで出会って結婚した藤田さんの夫となる男性に、藤田さん自身、最初は違和感を感じたと振り返る。
「日本人の顔をしているのに英語が第1言語である日系人のことを私は当時、まったく知りませんでした。彼は日本生まれですが、4歳からアメリカで育ったので、日本語を勉強していました。そして、夫は私のことを『日本人はおとなしいはずなのに、そうではない』という印象を持ったそうです(笑)」。
大阪に自分の音楽教室は開設したままだったが、88年に結婚した藤田さんは後継者に大阪の教室を譲って、自身はマンハッタンから移転してニューヨーク郊外の自宅で教え始めた。
「バブル経済で多くの日本人の生徒さんが増えて、ダイニングルームの家具を取っ払ってグループレッスンに切り替えました。でも、ヤマハ音楽教育部門からショッピングセンターで教室を構えてほしいと言われたので、主人が出身地のロサンゼルスに異動を希望してこちらに戻ってきたのを機に、引退する経営者の教室も講師も引き受ける形で、トーランスでヤマハ音楽教室をスタートしました」。
藤田さんは、ヤマハが日本の会社でもレッスンは英語でも行うべきと、日本語と英語の両方で教えることでローカライズを推進。その後、アーバイン、さらにコロナ禍で閉鎖したものの一時はラグナニゲルにも展開し、40~50名の講師とスタッフを擁し現在までに教えた生徒は延べ3万人以上にのぼるそうだ。
「アーバインの教室は私が購入した当初、レント代が非常に高額でレッスン料の収入とほぼイコール、つまり人件費などを考えると赤字経営が続いていたのです。私はこれではいけない、と安いレントの場所に移って建て直すことができました。でも、経営に苦労したかと聞かれると、私はラッキーだったと答えるしかありません。
実は35年間、アメリカで経営を続けてきたのに、苦労を苦労だと思ったことがないのです。また、20年前に入塾した盛和塾で、私の尊敬する塾長(故稲盛和夫氏)から利他の心を学べたことも、とても貴重な経験だったと感謝しています」。
「私は日米人」
「利他」と言えば、藤田さんは音楽教室の経営のかたわら、自身の時間や労力を、多くのコミュニティー活動に注いできた。
「オレンジ郡日系協会とのかかわりは、生徒さんのご両親から協会主催のジャパンフェアの会場として教室があるショッピングセンターのコートヤードを会場として使わせてほしいと言われ、ランドロードと交渉して許可をもらったのが最初です。それだけのお手伝いのつもりだったのに、やがて協会のボードメンバーになり、2013年からは会長に推され、10年間携わりました。さらに、女性経営者の会、Senior Foundation Charitable Corporationにも関与した他、敬老の施設が売却された後からKeiroの活動にも携わるようになり、現在は日系アメリカ人が多いボードメンバーの中、2名いるうちの1名の日本人のボードとして参加しています。
このようにコミュニティー活動に参加しているのは、自分がこれまでお世話になったコミュニティーに対して、自分がいただいたものに何かお返しをしたいからです。アメリカに来ることなく日本にいたら、もしかしたら、今も自分の生徒さんのことを考えるだけだったかもしれません。アメリカにきて、何万人というインターナショナルな生徒さんに音楽教育をすることができました。日本からやってきた私が、アメリカでそれができたことに、心から感謝しています」。
こうして藤田さんは、数々の活動の実績によって、日本政府から令和3年度(2021年度)の外務大臣表彰を受賞した。
最後に「藤田さんは何人ですか」とアイデンティティーに関する質問をすると、「日米人、と答えましょうか。ちょうど半分ずつ日本とアメリカで暮らしてきました。でも、国際人とまでは言えないです(笑)」。
日米人と自称する藤田さんは、自身が日系人について渡米前は何も知らなかった経験を反省材料に、日本からの高校生の修学旅行先にロサンゼルスの全米日系人博物館を加えるように校長先生に交渉したり、日系人と日本人をつなげる企画を模索したりと、今もさまざまな取り組みを行っている。そして、私の心に一番の印象を残したのは藤田さんの次のような言葉だった。
「人々が武器の代わりに楽器を手にすれば、戦争ではなく世界は平和になるはずなのに」。
その取り組みを足元のコミュニティーから地道に実践しているのが藤田さんだと言えるだろう。
© 2024 Keiko Fukuda