外国人部隊への志願
ほぼ毎日トップで報道される新型コロナウイルスのニュースより大きな出来事が起きた。ロシアによるウクライナへの侵攻だ。「戦争」と表現するメディアもあるが、これは一方的な侵攻であり住民への虐殺行為である。
2月24日にロシアが侵攻してから、ほとんど世界の世論はロシアを非難しウクライナへの支援をさまざまな形で行っている。国家単位のものもあればNGO、そして個人レベルの支援もあるが、もっとも直接的なのは義勇軍の一員としてウクライナへ行き、ロシア軍と戦うことだ。
ウクライナ政府は、ロシアの侵攻後、海外の元軍隊経験者などに外国人部隊(外国人義勇兵)への志願、参加を呼びかけた。これに対してヨーロッパを中心に軍事経験者のみならず未経験者がつぎつぎに志願をし、3月6日のウクライナのクレバ外相の発言では、約2万人が来たという。
ロイター通信社が、こうした志願者の動機について次のように書いている。
「ウクライナに到着した外国人志願者の一部は、『大義』に惹かれたと話す。数十年に一度しか起きないような民主主義と独裁体制による決戦で、ロシアの侵攻を止めるという大義だ。他方、ウクライナでの戦争は、自国政府から評価されなくなった戦闘スキルを活用する機会を与えてくれる場だと感じて志願した人々もいる。こう考える志願者の多くは、イラクやアフガニスタンでの従軍経験者だ。」(3月9日)
戦闘目的でウクライナに行くことについて、参戦を認めている国もあるが、アメリカは自制を呼びかけた。日本ではどうかというと、在日ウクライナ大使館が呼びかけた外国人義勇兵の志願者に元自衛官ら日本人約70人が応募したとされるが、日本政府は志願しないよう自制を求めている。
スペイン内戦の義勇軍
70人が多いか少ないかわからないが、おそらく一種の「大義」にかられて志願したのだろう。日本人が個人として志願して海外で武器をもって戦う。こうしたことがかつてあっただろうか。そう思ったときに心に浮かんだのが、ジャック白井という名前だ。
他国の人のために武器を持って戦う義勇兵の活躍が歴史上に残るのは、スペイン内戦(市民戦争)だが、このときジャック白井というアメリカにいた日本人が、共和国軍側の義勇兵としてスペインで戦い、そして亡くなっている。
スペイン内戦は、1936年7月スペイン共和国人民戦線政府に対してフランコ将軍が率いる軍部と右翼勢力が起こした戦争で1939年3月までつづいた。イギリス、フランスなどはこの内戦に不干渉の立場をとり、一方ドイツ、イタリアはフランコ軍を支援、ソ連は共和国軍を支援、アメリカは物資面でフランコを助けた。日本は勝利したフランコの政権を承認。
この戦いで人民戦線側は義勇軍を組織し、海外からの国際義勇軍部隊も組織され、その数は約4万人ともいわれた。
そのなかに、日本人、日系人がいたことはあまり知られていないようで、私もジャック白井なる人物いついて知ったのは、「スペイン戦争 ジャック白井と国際旅団1」(川成洋著、朝日選書、1989)に出合ったからだった。
スペイン史の専門家である著者は、ジャック白井の足跡を追いながら、スペイン内戦を義勇軍の側から見ていく。以下、本書からジャック白井と義勇軍についてまとめてみる。
義勇兵として共和国陣営に加わった日本人義勇兵で、記録上名前(名字のみ)が判明しているのは、「白井」だけ。このほか二人の日本人(また日系人)が戦っていたという記録と、メキシコ人義勇兵の中に二人の日系メキシコ人が交っていたとも言われる。
白井のくわしい経歴についてはわからない。本人が語ったところによると、生まれは函館で、孤児院で育ち、大恐慌のあった1929年にニューヨークに上陸したが、ニューヨーク港で、働いていた船から抜けて出て密入国したとみられる。当時のニューヨークには脱船者、密入国者、仮入国者、政治亡命者、学生または商人資格放棄者など、非合法に入国したもの、あるいは滞在していたものはかなりいた。
ニューヨークでは、あちこちでコックの仕事をしたのち、当時グリニッチ・ビレッジにあった日本料理店「島」に勤めた。また、ケーキやパンを焼くベーカリーの資格をとった。スペインで参戦する直前まで住んでいたアパートの郵便受けの表札には、「ベーカリー、ジャック・シライ」と書かれていたという。
レストランでの仕事が終わると、きまってダウンタウン2番街10丁目にある「日本労働者クラブ」に顔を出した。ここは、日本人の反戦グループとして誕生。アメリカ共産党草創のころ片山潜らが活動の拠点としていた場所だった。
スペイン内戦がはじまると、ジャック白井は、主に英語圏の義勇兵で編成された第15国際旅団アメリカ人大隊「リンカン大隊」の一兵卒として従軍。1937年7月11日、内戦の天王山ともいわれたマドリード攻防戦のひとつであるブルネテの戦闘の最中、フランコ軍の猛反撃のなか敵の銃弾を頸部にうけて即死した。白井は炊事兵として働いたが、最後は機関銃手として戦った。享年37と推定される。
白井の死をきいて駆けつけた二人の部下の一人は、白井の頭を抱きかかえて、この戦争が終わって3人とも無事帰国したら、ニューヨークででっかいレストランを開いて、金持ち連中からバッチリ金をしぼり取って貧乏人にタダで食べさせよう、と言っていた白井が、どうでして死んでしまったんだ、と号泣していた。
当時、ニューヨークにいて白井と交流のあった社会運動家の石垣綾子2によれば、現地に「日本人会」という組織があって、その職員が白井のような男をみつけては密告すると脅して、金をまきあげていたという。
日本で、そしてニューヨークの日本人社会のなかでも差別され苦悩しただろう白井は、スペインでは、明るく、毎日が充実していたようにみえたという。白井を知る人物への綿密な取材などから、川成はこう書いている。
この明るさは、ニューヨークで参戦を決意した反ファシズムの闘志としてよりも、自分の存在を確認できるスペインを「暗黒の中世に逆戻りさせようとする」(トム・ウィントリンガム『イギリス人大隊長』前掲)フランコ軍から守りぬこう、つねに前向きにそれに挺身しようとする意識が働いていたためだろう。スペインに全ての希望を託すことができたのだ。
人が移住や移民として他国にわたった理由のなかには、お金だけではなくそれまでに得られなかった何かを求める、ということがある。言い換えれば、それは満足のいく自己実現を目ざしてということかもしれない。
ジャック白井は、函館からニューヨークに渡り、そこからさらに何かを求めてスペインに渡った。今ウクライナに向かった義勇兵の行動も、大義や正義感に加えてひとり一人が抱える生き方の反映なのかもしれない。
(敬称略)
注釈:
1.本書は、後に加筆修正され、「ジャック白井と国際旅団―スペイン内戦を戦った日本人」(中央文庫、2013)として出版される。
2.石垣綾子は、ジャック白井と親交があり、著書に「オリーブの墓標 スペイン戦争と一人の日本人」(立風書房、1970)がある。のちに「スペインで戦った日本人」(朝日文庫、1989)として出版される。
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