マルコのお父さんは最愛の妻を病気で亡くしたため、一人息子を両親に預け、サンパウロへ出稼ぎに行った。3年たって、ようやく仕事も住まいも安定したので、息子のマルコを呼び寄せた。
マルコは11歳、大好きなパパー1と一緒に暮らすのが夢の夢だった!
毎朝早起きして、お父さんは仕事へ、マルコは学校へと、楽しい日々の繰り返しだった。なかでも、マルコの一番の楽しみは、週末に、お父さんの仕事場を訪ねることだった。
場所は「サンパウロの東洋人街」として知られるリベルダーデ区の中心街にあった軽食堂だった。マルコはそこで働くお父さんを誇らしく見ていた。イタリア系のパパーは、ブラジルのパステル2に豆腐とシメジの具を入れ、それを看板メニューにして店の売り上げを大きく伸ばしたのだ。
中学卒業後、マルコは薬局でバイトをしながら、夜間高校へ進んだ。リベルーデ区にも通い続け、日本のことにますます興味を持つようになった。ショーウィンドーに輝く刀や日本語教室の案内のビラを見ながら、本屋で見る漫画を立ち読みし、サムライ映画をビデオレンタル。「そうだ。日本語が話せたら、さぞかし、面白いだろうなぁ!」と、さっそく日本語教室に通い始めた。
そこで知り合ったのがスミエだった。彼女はマルコより2歳年上で、美容院で働いていた。夢は日本で美容室を持つことだった「ブラジル人が多い町で、みんなをキレイにしてお金をたくさん儲けるのよ」。
「なんで、そんなデッカイ夢を?」と、最初は驚いたが、スミエの決断力にマルコはどんどん惹かれていった。結局、マルコが22歳、スミエは24歳のとき、二人は結婚した。と言っても、最初は離れ離れだった。
「私は大丈夫だから、マルコは大学を卒業して、パパーが新しい商売を始めるまで手伝ってから、日本へ来ればいいよ」と、スミエは夫を励ました。
そして、スミエは日本に移住した兄夫婦の経営するスーパーの近くに小さな家を借りて「Sumie & Marco」という美容サロンをオープンした。美容師でないマルコの名前を入れたことには理由があった。男性の髪も扱うサロンにしたかったからだ。
一年半後、マルコはようやく日本に着いた。平日は電気機器工場で働き、土曜日は、地域のブラジル人学校の生徒たちの宿題を手伝ったり、地元の子供たちを集めてサッカーを教えたりした。最初は、何か手伝えることがあればと、スミエのサロンに顔を出したが、「仕事が捗らないから、来ないで」と、スミエに言われた。実は、スミエよりマルコの方が、日本語が話せたので、お客さんは、すぐマルコに話かけ、ブラジルのことや、日本の印象について、話が弾むようだった。
日本での暮らしは充実し、ふたりは大満足していたが、子供が出来ないのが悩みだった。「いつなんだ?私の孫は?」と、マルコのお父さんがいつも電話で聞いた。
それから3年後、スミエはやっと妊娠した。サロンの経営はいとこに任せ、里帰りをした。マルコは仕事の都合ですぐには行けなかったが、一か月後に迎えに行く約束をした。
久しぶりにブラジルへ戻ったスミエは皆に祝福され、実家でゆっくりと過ごした。両親の元気な姿を見るのが何よりだった。
「ブラジルのベビー服はとても可愛いから、持って帰ったらどう?」と、3人のベテランママの友達に誘われて、スミエはVinte e Cinco de Março3へ出かけた。
地下鉄駅を出ると、急斜面だったので、スミエは友達のマリアの腕を借りて歩き始めた。突然、誰かが走って来て、スミエとマリアを突き飛ばして去って行った。後ろからは何人かの男の人が「ペガ・ラドロン4」と叫びながら追い駆けて行った。
マリアはすぐに立ち上がったが、スミエはしばらく道路に倒れていた。他のふたりの友達と、通りがかった人たちは「大丈夫ですか?」と、心配そうにスミエを囲んだ。
スミエは立ち上がり、恥ずかしそうにうなずいた。
その日、買い物をするのは止めて、皆、タクシーで帰った。
その時は、この出来事が悲しい結果に終わるとは、誰もが想像していなかった。
続く>>>
注釈
1. イタリア語で「お父さん」
2. ブラジルのおやつでNo.1
3. サンパウロの中心部にあるにぎやかな商店街
4. 「泥棒だ!捕まえろ!」
© 2021 Laura Honda-Hasegawa