ラウラ・ホンダ・ハセガワ

(Laura Honda-Hasegawa)

1947年サンパウロ生まれ。2009年まで教育の分野に携わる。以後、執筆活動に専念。エッセイ、短編小説、小説などを日系人の視点から描く。

子どものころ、母親が話してくれた日本の童話、中学生のころ読んだ「少女クラブ」、小津監督の数々の映画を見て、日本文化への憧れを育んだ。

(2023年5月 更新)

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デカセギ・ストーリー

第四十四話(前編)「ただいま帰りました」

パウロは中学生のときから心に決めていた。「高校卒業後は、神学校へ入学し、宣教師になる」と。 両親はクリスチャンではなかったが、父方のおばあさんの影響で、パウロはクリスチャンの教育を受けた。 日曜日の朝は、バスに30分乗っておばあさんの家に行き、そこからおばあさんと2人のいとこと一緒に教会へ通った。礼拝は、大人の礼拝と子供の礼拝に分かれていたが、正午になると、皆、食堂に集まり、食事を共にして、楽しい時間を過ごした。特に、パウロは皆と話しをするのが大好きだった。 パウロは、サンパウロの郊外に家族と住んでいた。自宅のある地域は、あまり安全な地域ではなかったが、サンパウロ市内へ家を購入するのは難しかった。 父親はサンパウロ市内にある印刷会社を経営していたので、毎朝早く、車に乗って家を出た。パウロが念願のサンパウロの神学校へ通い始めると、父親と一緒に朝早くに車で学校へ向かった。 ある朝、いつものように車で家を出た二人は、バイクに乗った2人組に襲われた。父親がバイクを振り切ろうと角を曲ると、もう1人の男が突然現れ、父に銃を向けた。父とパウロは抵抗をせずに、すぐに車から降りたが、父は足を撃たれ、3人組は車を奪って逃走した。 パウロは父親をすぐに病院へ連れて行ったが、父の足は完全には回復せず、一人で歩くことができなくなってしまった。以後、家族の生活は一変してしまった。 結局盗まれた…

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オハヨウ・ボンディア II

「バッチャン」は人気の言葉

わたしがまだ小さい頃、「ラウラのおばあちゃんは遠くに住んでいるのよ」と、母は写真を見せてくれながら、おばあちゃんのことを話してくれました。そして、12歳のとき、初めておばあちゃんの家を訪ねました。 祖父母、独身の叔父4人、おばあちゃんが預かっていた孫娘2人、同じ敷地に家を建てて暮らしていた叔父夫婦と5人の子ども、つまり、いとこだけでも7人も居ました。 サンパウロから10時間以上かけて、ようやく母と私が着くと、玄関で待っていたおばあちゃんが私の方に駆け寄って来て、強く抱きしめてくれました。「ラウラ!!」と、涙ぐんで言いました。私は緊張と感動と驚きのあまり、「おばあちゃん!!」と叫びました。 その瞬間、周りに集まっていたいとこたちがゲラゲラと笑い出しました。「もう遅いから寝なさい」と、大人たちに言われ、皆、家に入って行きました。 翌日、食卓を囲むいとこたちが、「バッチャン、バッチャン」と呼び、おばあちゃんに、もっとパンが欲しいとか牛乳は嫌いだとか言っているのを聞き、昨夜、私がどうして笑われたのかが、分かりました。 60年前のエピソードですが、、当時の日系人が家庭では「バッチャン」と呼ぶのが普通で、私は知らなかったのです。 当時、非日系人が使う日本語の言葉は、「アリガトウ」と「サヨナラ」ぐらいでした。子どものころ、ブラジル人はこの二つの言葉の発音を真似して、ふざけていたのを…

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デカセギ・ストーリー

第四十三話 朋美もナルトも夢を追う

日本人の父親と日系ブラジル人の母親を持つ朋美は19歳。 デカセギとして日本へ行った朋美の母親は、はじめは名古屋のパン屋さんで働いていた。そのとき近所の自転車修理店のオーナーに誘われパン屋さんを辞めて自転車修理店で働くようになった。その後すぐに2人は恋に落ち、一緒に暮らすようになった。それから、朋美が生まれて、生活は充実、安定していた。 4年前、とても残念なことに、朋美の父親が肺がんで亡くなってしまった。親子の生活は一変した。両親は正式に結婚していなかったので、自転車修理店は父親の兄夫婦が経営を引き継ぐことになり、朋美と母親は住まいをも失い、ブラジルに戻らざるを得なくなった。 「勝手に日本に行って、20歳も年上のマリード1でないマリードを持つアホがいるか」、「罰が当たったんだ」、「娘が可哀そう」などと、ブラジルへ戻った母親は家族に散々言われた。 そんな母親に幼なじみは、住まいを提供し、仕事を紹介した。 一方当時の朋美は、片言しかポルトガル語が話せず、そんな自分を恥ずかしく思うとともに、悔しい思いを感じていた。あちこち調べて、デカセギの子どもをサポートするポルトガル語教室に通い始めた。一生懸命勉強したので、その1年後にはブラジルの高校へ進学することができた。 学校では、クラスメートたちが朋美に漫画、アニメ、コスプレ、J-POP やK-POPのことを聞いてくるようになった。…

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デカセギ・ストーリー

第四十二話 バチャンが日本にやってくる!

僕の名前は竜馬・レオナルド、11歳です。「竜馬」は大河ドラマを見て坂本竜馬のファンになったブラジル人のパパイ1が選びました。パパイは日本名だけで良いと思ってましたが、日系三世のママエ2はレオナルド・ディカプリオの大ファンで「レオナルド」という名前をどうしても付けたいと、最終的にこの名前になったそうです。面白いことに、皆は「レオナルド」ではなく「竜馬」と僕を呼びます。僕はこの名前が大好きなので、とてもうれしいです。 両親は2007年に日本に来て、僕は2011 年、愛知県豊橋市で生まれました。 僕は3歳のとき、はじめてブラジルへ行きましたが、よく覚えていません。ママエのお父さん、つまり僕のジッチャンが病気になったからです。ママエは僕を連れて急いで戻りましたが、ジッチャンはすぐに亡くなってしまいました。 バチャンの子どもは4人。長男と次男は高校を卒業するとすぐに日本へ出稼ぎに来て、日本で結婚して子供もいます。長女のママエはブラジルで結婚して日本で暮らし、次女はカナダで語学留学をしています。 ブラジルでひとりになったバチャンをママエは日本に呼び寄せようとしましたが、当時のバチャンはまだ市役所で働いており、6年後には定年を迎えるからその時日本へ行くとママエと約束しました。 「バチャン、いつ日本に来るの?」と、孫たちは電話やビデオコールでいつも聞いています。僕は、いとこたちと違って…

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デカセギ・ストーリー

第四十一話 生き別れになったユゴと母親

ユゴが4歳のとき、両親は別れ、母のエネイダは一人で生まれ育ったポルト・セグロに戻った。 ユゴの父親は、このような別れ方をするだろうと思っていたからそんなに驚かなかった。 「エネイダは、テレビドラマで見るサンパウロの暮らしに憧れてただけだよ」 「そんなエネイダに一目ぼれなんて、本当にアホ息子だ」 「赤ちゃんのユゴの面倒も見ずに街に遊びに行くなんて、信じられない!」 と、親戚は最初からいろいろと言った。 父親が朝市で働いている間、ユゴはいつも近所に住む父の姉ティア1はるみに預けられた。母親が居なくなった後も、同じだった。 小学生になると、ユゴは家で父親とゲームをしてよく遊んだ。父親は、ユゴの勉強も見てくれた。父親はユゴの大の友達でありヒーローでもあった。 ユゴが中学校を卒業するころ、父親は再婚を進められた。相手は日本へ出稼ぎに行く準備をしていた元看護師だった。父親はとても悩んだ。しかし、「ユゴはブラジルで高校を卒業するのが一番だ。自分一人だけでは、日本に絶対に行かない。ユゴとは離れたくない」と、父親は縁談を断った。 高校の3年間はあっという間に過ぎた。卒業したユゴは、父親と日本へ行くことにした。その一年ほど前に、ティアはるみと家族がすでに神奈川県大和市に移住していたので、ユゴたちも同じ町に住むことにした。 父親は電子部品製造会社に勤め、ユゴはアルバイトをしながら専…

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