ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第3回 シアトルの発展と日本町の繁栄

シアトル市全景写真(『北米時事』1918年1月1日)

前回は1890年頃にシアトルに渡り日本人元祖とよばれた森田万次郎と古屋政次郎についてお伝えした。今回は1917年以降のシアトルの著しい発展と、日本町の繁栄に関する記事を紹介したい。


シアトルの急速な発展

1918年都市別貿易額(『北米時事』1918年9月18日)

第一次世界大戦以降、シアトルは軍事産業や造船業が非常に繁栄し、貿易港として1917年以降著しい発展を遂げた。シアトル貿易額(輸出入額)は1912年から1916年までの4年間は米国内第9位だったが、1918年にニューヨークについで第2位に駆け上がり、太平洋沿岸ではサンフランシスコを凌いで第1位となった。

1919年6月16日号に、シアトル輸出入額が1914年が1億1000万ドルで、そこから急上昇し、1919年6月までの1年間の輸出入総額が5億8500万ドルと記録破りの数字になったことが記されている。この数字は外国貿易のみだが、太平洋沿岸各地、ハワイ、アラスカ、オレゴン、カリフォルニアなど国内輸出入額を加算すると11億2000万ドルに達した。1918年7月19日号に「シアトルがサンフランシスコを凌ぐ理由」として、次の点があげられていた。

「① 優れた港湾委員の存在。② 大戦時に地中海、スエズ運河閉鎖の頃に優れた港湾設備を持つシアトルが大きなチャンスを得た。③ 波止場と大埠頭の所有。 ④ 倉庫の整備。⑤波止場料の徴収。⑥ 港湾局による改造の実施」

筆者は、シアトル航路とそれに繋がる大陸横断鉄道がアジア、アメリカ、ヨーロッパを繋ぐ最短コースになったことも更なる要因ではないかと考える。

この頃のシアトルの写真が残されていた。高層ビルが立ち並んでいる様子が伺える。シアトル市の人口は1920年には31万5000人となった。

日本人人口の増加 

この頃の急発展したシアトルに、アメリカ各地にいる日本人が集結した。1918年4月25日号に外務省報告「外国在留日本人統計」として、当時のシアトル市の日本人人口が男3,977人、女1,543人 合計5,520人と記されている。

「シアトル同胞労働界現状」(『北米時事』1918年9月21日)

1918年の7月8日、9月3日、9月21日、10月4日の4号に日本人人口増についての記事があり、それらを要約すると次の通りだ。

「日本人労働者が他州から続々、シアトルへ入り込んでいる。現在シアトル人口は周辺地区を含むと約7000人、アラスカでの缶詰業より帰来した人達をいれると、ゆうに8000人位、妻帯者も著しい増加。一日2人の割合で増加している。

カリフォルニア州は夏季の農業労働のみだが、当地方は四季を通じて一定の就業口がある。カリフォルニア州は一日3ドルが標準、当地は一日4ドルが標準(日本円で約8円、現在に置き換えると8000円程度)。

給料のよいことは米国中最高で、洋食店、ホテル、家内労働、農業、ソーミル(製材所)、婦人の働きが増加している。

ニューヨークとシアトルを比較すると、ニューヨークでは一部の造船所、軍需工場を除いて高い賃金は少ない。シアトルは比較的容易な仕事で高い賃金を得られる。食事代は一食ニューヨーク50~75仙、シアトル25~50仙。ニューヨークではチップ制度があり、理髪店、靴磨きまでチップを払っている。ニューヨークは生活費が高く、ホテル代、下宿代も高い。シアトルに住む人は幸せである」


日本人ビジネスの発展

シアトル市には、日本人による貿易会社、商社、銀行などが次々と進出した。シアトルの日本人銀行は、1907年に前回に紹介した古屋政次郎によって日本商業銀行が創立された。1917年には横浜正金銀行、翌年に住友銀行がシアトルに支店を出した。

当時のシアトル日本人の預金額が、1918年11月19日号及び1919年3月24日号に掲載されていた。1919年の3銀行の預金総額は392万ドルだった。この金額は、当時の日本円で約784万円、現在に置き換えると80億円程となる。当時のシアトル市日本人5,520人の本業者数(家族を除く)を日本人人口の60%とすると、3,300人の本業者一人あたりの預金額は、現在に置き換えると250万円程度という計算になる。多くの日本人は稼いだお金はほとんど預金するか、郷里送金し、自分達の生活は質素だった。

シアトル同胞預金高(『北米時事』1918年11月19日、1919年3月24日)

日本人人口の増加に伴って多くの日本人ビジネスが発展していった。1919年の5月8日、7月31日、12月29日号に日本人ビジネスの発展について掲載された記事がある。

記事に掲載された日本人ビジネスは次のように多業種に及んでいる。「日米貿易、銀行界、労働界、各商店、農業界、海運界、ホテル、洋食店、洗濯業、グロサリー業(日本食料品及び雑貨販売)、理髪業、ダイウオーク(クリーニング業)、活動写真、大アパートメント、自動車修繕所、衣類及び靴店、フルーツスタンド、ソフトドリンク、玉突き場等」。そして、「ジャクソン街の日本人経営の商店は白人区域内と遜色なしと評価された」「これも日本人の勤勉によるものだと絶賛された」とシアトル社会からも認められていることを誇っている。

日本人はシアトル市の中心部より南を東西に走るメーン街を中心として、ワシントン街、ジャクソン街、キング街、ウエラ―街、レイン街等に狭められた区域に寄り添うように住み、日本町を形成していった。

シアトル日本人社会の発展は1935年頃まで続き、同年の日本人人口はシアトル市内で7,500人、周辺地区を含めると1万5600人まで増えていた(シアトル領事館内の米国国勢調査による)。


日本町の繁栄

1937年以降、日中戦争の影響で日米関係が悪化して、日本人人口の増加と供に高まっていたシアトル地域の反日運動が更に強まり日本製品不買運動なども起こるようになった。そんな世情の中で、1938年12月1日号から20日号まで、「師走の同胞商店のぞきある記」と題する記事が掲載されていた。日系ビジネスを宣伝しようという趣旨のものだったようで、日本人商店が一軒ずつ紹介されていた。各店がショウウィンドウを飾り立て、アイディアを駆使して日本町を盛り上げようとしていた。紹介文を読むと、日本町の活気を感じ、ちょっと覗いてみたくなるようなおしゃれな店ばかりだった。

シアトル日本人街明細図。「クリックして拡大] (伊藤一男 『北米百年桜』他より)

1939年12月も「年末お買い物案内」として日本人商店の店舗紹介が1939年12月2日号より12月26日号まで毎日掲載された。その第1回では、中村時計商会、メーン薬店、ステート薬店の3店が紹介されている。それぞれ時計や薬の専門店と思いきや、びっくりするような物が売られていた。中村時計商会ではガラス入り舞踊人形、カットグラスのウイスキーセット、日本趣味の額縁、メーン薬店では万年筆、ハーモニカ、ステート薬店ではシガレットライター、子供用写真機。北米時事記者のコメントとして「本紙に現れる各商店の広告に十分目を通し予めの好ましい品物を選択してから買物に出かける様にしている。そこで今年記者も本紙広告欄の商品を漁り歩く事にした」と、いかにも楽しそうな記事だ。

店頭に並ぶ品物。出典:「師走の同胞商店のぞきある記」『北米時事』1938年12月2日~12月20日より。

それでも、当時の日米関係の悪化が十分に伝わる記事が、こうした日本町の楽しそうな記事と隣り合わせで見られる。1939年7月29 日号には「7月26日に在米同胞に直接重大な影響を与える米国政府からの「日米通商条約」の一方的廃棄通告が出て1940年1月26日には失効となる」との記事が出ている。当時の日本町の人々は不安にかられていただろう。12月12日号には、「年末お買い物案内」記事の上に、「同胞は自重せよ」と大きな見出しがあり、日本人会が「日米通商条約破棄の状況でも忠実に各自の職場を守るように」と訴えていた。このような深刻な状況下で、日本人商店は明るく何とかシアトルの地で生き延びようと懸命に奮闘していたのだ。

次回は1918年以降シアトルで活躍した日本人の様子に関する記事について紹介したい。

*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む。  

参考文献

竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年
伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1969年
『北米年鑑』北米時事社、1928年、1936年

 

*本稿は、『北米報知』に2021年7月30日に掲載されたものです。

 

© 2021 Ikuo Shinmasu / The North American Post

business community issei Japanese immigrants Japantown Seattle

このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

第1回から読む >>

* * * * *

『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。