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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第4回 シアトルで活躍した人達

前回は1917年以降のシアトルでの日本人ビジネスの発展に関する記事を紹介したが、今回はシアトルで活躍した人達について紹介したい。

「一日一人人いろいろ」1919年

1919年1月から2月に渡り「一日一人人いろいろ」と題して発展したシアトルでいろいろな分野で活躍する人達の紹介が、毎日一人ずつ掲載されていた。各氏の功績、隠れた一面などがユーモラスに書かれている。この中からいくつかの記事を取りあげたい。

第5回 平出亀太郎(平出商店) [1919年1月8日号より]

「平出家に貰われて、横浜で大きくなり、ショートパンツで米国に来てから、ニューヨークの商業学校で学んだ。(中略)店も次第に広げられ、今日の繁昌は努力の結果だろう。みかけはボッチャンのようだが、焼いても煮ても食へないスマートな男だそうな」

この記事からすると、平出亀太郎はなかなかのやり手で、マネージメント能力の優れた人物と推察される。亀太郎は日本雑貨食料品を扱う平出商店を創業した倉之助(1892年渡米)の後をついだ人物である。亀太郎は、有馬純達『シアトル日刊邦字紙の100年』によると1924年シアトルで有馬純義・環の結婚媒酌人をつとめた。また1926年から北米日本人会長として活躍した。


第7回*注1 土倉四郎(横浜正金銀行シアトル新支店長) [1919年1月10日号より]

「シアトルの古参、工藤今次郎がニューヨークへ栄転の後を受けて、サンフランシスコ支店副支配人から北上してきた。サンフランシスコ支店長の下働きから、押しも押されもせぬ出店の旦那となった。先任工藤がとにかく苦心経営して固めた正金の地盤をこれから如何に拡充していくかを一般が嘱目(しょくもく)している。生まれは千本桜の道行きでご承知の大和の吉野豪農、土倉の四番息子。(中略)山持ちでありながら自由党に政費を出した亡父の血を受継いだ彼は何処やら国司の面影がある。算盤を持たなかったら、あるいは政治家になったかもしれぬ」

「一日一人人いろいろ(六*)土倉四郎」(『北米時事』1919年1月10日)

横浜正金銀行は前回お伝えしたように、日本からの銀行として1917年にシアトルへ進出した。その初代支店長が工藤今次郎で、その後を継いだのが土倉四郎だった。

工藤今次郎(『北米時事』1918年11月26日)

1918年12月2日号に、古屋政次郎(古屋商店、日本商業銀行の創立者)が主催し、工藤氏と土倉氏の歓送迎会が「まねき」で行われたことが記事になっている。松永領事他多くの来賓が出席したようで、北米時事社から宮崎(1919年1月1日号の北米時事社社員一覧より宮崎徳之助と推測)も出席した。

工藤今次郎については、1918年1月1日号に横浜正金銀行支店長として自身の投稿があった。

「シアトルに横浜正金銀行出張所を設置したとき、主任として赴任したが予想以上の外国為替取引に好成績を上げることができた。(中略)その取引の主なる人は自分達がシアトルでは知らない人達で、日本の有名な大会社三井物産、鈴木商店等もあるが、多くは新進の商人によって、大取引がされている事実については感慨深いものがあった。(中略)今度ご当地に赴任して日本人社会の大発展、総ての事業の進歩、基礎の確立、社会の秩序の整頓、見聞ことごとく意想外で、その進歩は著しいのに驚嘆した」

工藤今次郎はシアトル外国為替銀行の元祖として、貿易業の発展に貢献した。英語堪能で、多くのシアトル在留日本人に英語を教えたようである。文献によると、工藤今次郎はワシントン大学に入学し、熱心に語学を学んだ。


第8回 川上保太郎(アメリカンテーブルソース会社社長) [1919年1月11日号より] 

「テーブルソース会社ではランチ用の一寸おいしいバターを売り出している。シアトルに来て以来、盛んに活動している商才もあり、発明に没頭する根気もある。器用貧乏でまだ成功はしていないが、きっと成功する人物だと信じる」

川上保太郎(『北米時事』1918年1月1日)

1918年1月1日号にも、川上保太郎は写真つきで掲載されている。

「川上保太郎は横浜商業学校の出身にして1893年渡米、直ちにアラスカ探検し白人の妨害に遇うも屈せず、同地ジューノウに洋食店又雑貨店を開いて成功した。アメリカ滞在中、百方苦心して白人向ソースを発明し、之を米国人に嗜好させ、我国益となる事を信じ、その経営する事業を犠牲にして目下、その製造販売に熱中し着々成功しつつあるという」

通常アメリカに渡った日本人は、すぐお金になるビジネスに励んだが、川上保太郎は自身のビジネスを捨てて、新しい製品を開発するというチャレンジ精神には驚嘆させられる。

第24回 名村豊太郎(住友銀行シアトル支店支配人) [1919年2月4日号より]

「神戸高商出身で至極温厚な圭角(けいかく)のない男。住友の家風だろうが、前垂れ掛け(まえだれがけ)式の態度は少し正金とは行き方が違う。万事内気な手堅いやり方は金庫の番人として適材であろう」

前回、お伝えしたように住友銀行は1918年にシアトルに進出し、在留日本人の預金や郷里送金などの業務を行い、日本人社会を支えた。


第25回 オル・ハンソン(シアトル市長) [1919年2月10日号より]

「靴磨きから苦学して仕上げた男で政治は好きだが、金を作らねば何事もできないと土地家屋の売買業を創め、新聞広告を利用して大いに儲けた。スカンジナビア人で同国人間にはなかなか信用があり、市会議員から州下院議員にキング郡から選出され、遂にギル前市長を破り現職に就いた」

オル・ハンソンシアトル市長に関して次の二つの記事があった。1918年2月20日号に、「シアトル市長選挙、ハンソン氏大多数投票得る」の表題で「ハンソン氏は投票者数の40%にあたる票を獲得し、現市長を破り市長となった」と選挙結果を伝える記事。1918年8月16日号第1面トップの「社論」として「労働市長」との記事が掲載された。 

「人口45万、シアトル市長 オル・ハンソン氏、 エリクソン造船所の一労働員となり、執務の後、午後4時より労働服を着て、綿製帽をかぶり、額に汗をかいて、夜中の12時までの8時間労働をしている。日本人の眼から見れば、堂々たる市長が一造船職工となるのは威厳を損すると見る。(中略)米国人は個人主義的と同時に奉仕の精神旺盛、日本人も学ぶべき教訓となる」

スカンジナビア出身の市長は、日本人と同じように一からたたき上げの苦労人で大変な努力家であることがわかる。当時排日運動があったにも関わらず、市長がプライドを捨てて働く姿を学ぼうとする、日米友好ムードを感じる記事だ。

第26回 築野豊次郎(日本人洋食店組合長) [1919年2月11日号より]

「同情ストライキの渦中に巻き込まれた日本人洋食店組合長たる彼は山梨県人で死んだ又二郎の弟、日米興業社の市蔵の兄貴である。昨年故郷の兄嫁が死んだので、25年ぶりに日本の土を踏んだシアトルの古老株である。ショートパンツで渡米して此の程ニューヨークに行った工藤今次郎(前述)に英語を教わったというからかなり骨董品だ。多年レストランを経営して同県中ではやはり立て物で山梨モンキーに似合わぬ角のとれた丸い男だ」

第1回で19世紀後半のメーン街の様子を生き字引の如く語った築野豊次郎の1919年頃の様子が記されている記事だ「同情ストライキ」とは、1919年の2月初めにおこったシアトルでの白人側の工場総ストライキで、日本人洋食店組合は白人社会との協調を考え、閉鎖することを即座に決定した。(同年2月5日号に掲載)

兄の築野又二郎は東洋貿易会社の社長として活躍した人物。弟の築野豊次郎は1896年に渡米し、レストランをいくつか作った。又初代山梨県人会会長を務めた。

今回掲載された他の各氏についても各界を代表する人物が多く掲載されており、今後の連載の中にて取り上げたい。

次回は、シアトル領事館に派遣された領事についてお伝えする。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

続く >>

注1:1919年1月10日号では「(六)土倉四郎」と記されているが、土倉は「一日一人人いろいろ」のコラムの7人目なので、ここでは7回目と表記。


参考文献

加藤十四郎『在米同胞発展史』博文社、1908年
竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年

 

*本稿は、『北米報知』に2021年9月6日に掲載されたものです。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

1919 japanese businesses seattle The North American Times

このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。