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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2017/11/7/kobayakawa-boarding-house/

小早川ボーディングハウスの盛衰 — 石岡利夫さん、ジャパンタウン命名は評価

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右端の家屋は、利一さんが最初に開いたボーディングハウスが学校用地として没収された時に得たお金で購入し、ビバリーヒルズから持ってきたものです。その左隣の家屋にテナントのみんなが食事をするダイニングルームがあった。左手の2軒は利一さんが作った計9ユニットのバンガロウ

ソーテル通りのラグレンジ通りからミズーリ通りまでの東側の広い一角には現在、大きな複合施設やアパート・ビルが立ち並んでいます。そのブロックには、かつて数多くの庭師らが住んでいたボーディングハウス(寄宿舎)がありました。「小早川ボーディングハウス」です。6つの大きな家屋や簡易住宅に最大60人が住んでいた大掛かりなボーディングハウスでした。広島からの移民である石岡利一(りいち)氏が1926年に一軒家からスタートし、その後1930年代初頭に大幅拡張、戦時中の一時中断を経て1979年に閉鎖するまで、実に数多くの庭師がここに住み、ブレントウッドやビバリーヒルズ、ベルエアなどの白人の家の庭の手入れを請け負ってきました。

ボーディングハウス業を手伝っていた利一氏の息子、石岡利夫さんはビジネス閉鎖後ソーテル地区から西のマービスタ地区に移り住みましたが、ソーテル地区一帯を「ソーテル・ジャパンタウン」と命名することについての集まりに出るなど、ソーテル地区に対する深い愛着は衰えていません。ただ、その利夫さんも「ジャパンタウンと言っても、ビジネスの多くは今ノン・ジャパニーズであり、住んでる人たちも変わったし。実態はもうジャパンタウンと言えないかもしれない」と言います。利夫さんはソーテル地区の変容を惜しむかのように、ボーディングハウスの歴史を話してくれました。

石岡さん自慢の父親利一さん

石岡利一氏は1890年、広島生まれ。まだ幼少のころ、父親が落雷を受けて死亡するという、実に稀有な人生のスタートでした。それで母方の小早川家に引き取られ、そこで育ちました。ボーディングハウスの「小早川」の名前はそこから来ています。小早川家の躾は厳しく、利一氏は少年僧として5年ほど修行。その後、商船の乗組員となり、世界を回っていたのですが、アメリカに来たのはその時。利一氏20歳のことでした。

最初シアトルに降り立ち、それからサンフランシスコを経てロサンゼルスに。1926年にソーテル通り沿いの一軒家を買い、ボーディングハウスの仕事を始めました。それまでにガーデナー(庭師)としての腕を身に付けていた利一氏は、ボーディングハウスの宿泊者らに造園のノウハウや庭師としての技術を教えました。時には頼母子講を開いて、必要な機具の購入を手助けしたりもしました。

しかしその後、この家のすぐ隣にあるノラ・ステリー小学校が、公共機関による土地収用措置で、小早川ボーディングハウスの土地を取得。それで利一氏はソーテル通り沿いのもっと広い土地を手に入れ、それまでよりも手広くボーディングハウスのビジネスを始めました。

ビバリーヒルズから運んだ住宅。

そのころ小早川ボーディングハウスに住んでいた人たちの95%はガーデナーでした。大半は広島か九州からの人たちで、農家出身だったようです。利一さんが庭師を指導する一方で、妻のわかのさんがビジネスとしての実質的な切り盛りを担当、庭師と依頼人とのコーディネションから庭師らの昼食の用意や洗濯まで、実に大変な仕事だったようです。それで、息子の利夫さんや娘たちもビジネスを手伝いました。

ボーディングハウスは利一さんのところだけではありませんでした。1941年ごろまでに8つのボーディングハウスができ、そうしたボーディングハウスに住む庭師らの用に給するため合計28のナーサリー(植木業者)ができました。まさに、庭園業のメッカの様相です。こうして、庭園業を軸に、ソーテル地区はジャパンタウンとして栄えていきました。ボーディングハウスの居住者で成功した人たちは、見合い結婚や写真結婚をして、ソーテル地区に住み着くようになりました。

OKナーサリー

そして1941年12月、日米戦争の勃発です。西海岸に住んでいた約12万人の日系人や日本人は強制立ち退きとなり、大半は強制収容所へ送られました。しかし、石岡さん一家は強制収容を避け、コロラド州へ避難しました。コロラド州のラルフ・ローレンス・カー知事が公然と日系人を擁護、西海岸から強制立ち退きとなった日本人や日系人を受け入れてくれたからです。利一氏は車に詰めるだけの物を積んでコロラドに向かいました。ボーディングハウスに住んでいた5人のテナントも一緒でした。

コロラドで利一氏は3つの仕事を持ち、せわしなく働きました。戦争で若者が戦場へ行ってしまっていたので、仕事はたくさんあったのです。夏場はガーデナーに家畜の世話、夜はパイ工場で働きました。利夫さんたちも昼間は学校に行きながら、夜はビルの清掃の仕事をしました。

戦時中、幸いにもボーディングハウスを保持することができたのですが、そのことに関して、利夫さんはシュナイダーという白人に負うところが大きいと言います。彼は不動産とファイナンスの専門家で、利一氏の不動産の大半は彼が面倒をみてくれました。彼は、もしそうしようと思えば、戦時中のドサクサの中、石岡さんたちの不動産をいとも簡単に自分のものにすることができました。でも、彼はそんなことはせず、ボーディングハウスから5マイルほどのところにあるダグラス社の従業員にボーディングハウスの部屋を貸すことで、石岡さんたちがコロラドに行っている間、財産を管理してくれました。不動産のモルゲージの支払いの手続きもしてくれ、支払いの額が足らなかった時、二度だけ送金を依頼してきたということです。

テナント用の4ユニットの家屋。立っているのは右から、利夫さん、トシエさんの娘のアリスさん、利夫さんの姉のトシエさん。

こうして、コロラドで4年半を過ごしたあと、戦後ソーテルに戻り、またボーディングハウスの経営に戻りました。利一さんらはソーテルに帰還した最初の日本人だったようです。そういうこともあったのでしょう。帰還間もないころ、建物に石や卵を投げつけられたことがありました。しかし、テナントの中に、442部隊の兵士として従軍した2人の息子を戦争で失った人がいて、彼が、石を投げつけられて破れた窓ガラスのところに、2人の息子の戦死を示す「ゴールドスターバナー」を据え付ました。するとたちまち、そうした野蛮な行為は止まりました。

利一氏は、ソーテルからマンザナ収容所に入れられた人たちと連絡を取り合っていたので、彼らもマンザナを出てからボーディングハウスに戻り、またガーデナーの仕事に復帰しました。生活は再び元の状態に戻り、ボーディングハウス業も栄えました。

利一さんが建てた家屋2軒の左側にあった2階建ての家屋。この1階に石岡さんら2家族が住み、2階を貸していた。

テナントは戦前と同じく、やはりガーデナーが大半。日本から移住してくる人たちは絶えなかったし、ガーデナーの仕事も途切れることはなかったと言います。

しかしその後、様相は次第に変わっていきます。日本の経済成長につれて、日本からアメリカに来てガーデナー業に就く人が次第に減っていきました。そうした状況につれて、日本人や日系人以外のガーデナーが増えていきます。彼らが、日本人や日系人のガーデナーの客の庭の世話をするようになっていきました。

そうこうする間に、ソーテル地区のビジネスや住民も次第に変わっていきます。

マービスタの自宅でくつろぐ利夫さんと妻のマサコさん。この家は、ボーディングハウス閉鎖後購入し、移り住んだ。2人の後にあるのは利一さんの胸像。1977年に日本で作られたものとみられるが、詳細は不明。

そうした状況を踏まえ、「小早川ボーディングハウス」は1979年、ビジネスを閉めました。ボーディングハウスだった建物と土地は開発業者が買収。建物は全部壊して、そこに複合施設を建設しました。

利一さんはその年に死去。利夫さんはマービスタに移りました。ソーテル地区は「小早川ボーディングハウス」の全盛期から大きく変わりましたが、「それでも、数多くの日本人や日系人が住んで働いていたことを忘れないために、ソーテル・ジャパンタウンの命名は価値がある」と話す利夫さん。昔の写真や新聞記事に目を落としながら、ソーテル地区の想い出に浸っているようでした。

 

© 2017 Yukikazu Nagashima

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このシリーズについて

ウエストロサンゼルスのソーテル地区が2015年、ロサンゼルス市議会の賛同を得て「ソーテル・ジャパンタウン」と命名され、標識がソーテル通りとオリンピック通りの角に設置された。日本の商店やレストランが集中する地区として年々賑やかさを増しており、まさに「ジャパンタウン」の命名はふさわしいだろう。だが、この地区は長年「リトル・オーサカ」と呼ばれ、すでに日本人街であることをアピールする名前を持っていたことも事実。それなのに、なぜ今「ソーテル・ジャパンタウン」なのだろうか。命名の経緯をたどるとともに、地域の住民や商店主などの反応を聞いた。

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執筆者について

千葉市生まれ。早稲田大学卒。1979年渡米。加州毎日新聞を経て84年に羅府新報社入社、日本語編集部に勤務し、91年から日本語部編集長。2007年8月、同社退職。同年9月、在ロサンゼルス日本国総領事表彰受賞。米国に住む日本人・日系人を紹介する「点描・日系人現代史」を「TVファン」に連載した。現在リトル東京を紹介する英語のタウン誌「J-Town Guide Little Tokyo」の編集担当。

(2014年6月 更新)

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