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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2016/8/25/hashimoto-nursery/

淡々と事業続ける「ハシモト・ナーセリー」の橋本陽太郎さん

コメント

ウエスト・ロサンゼルスの一角、ソーテル地区。その一帯が2015年に「ソーテル・ジャパンタウン」として市の認定を受け、標識がソーテル通りとオリンピック通りの角に設置された。ソーテル地区は長年「リトル・オーサカ」として親しまれてきたが、近年日本人や日系人が経営する商店やレストランが増えたことを踏まえて「ジャパンタウン」と命名されたものだ。市の認定に向けて地元の人たちはジャパンタウン推進団体を組織して活動、認定に喜びの声を挙げている。

しかし、「ジャパンタウン」と命名されてもこれまでの事業に大きな変化はないと、淡々と事業を続けているところがあるのも事実だ。同地区最古のナーセリー、今年で営業88年になる「ハシモト・ナーセリー」もそのひとつ。現在の経営者、橋本陽太郎さん(72)はソーテル・ジャパンタウンの命名について「やはりいいんじゃないでしょうか」と一定の評価を下しながら、「でも、うちはこれまで通りの営業を続けていくだけですよ」と、命名を比較的冷静に受け止めている。その冷静さはどこからくるのか。冷静さの裏には何があるのか。このシリーズを通して、ソーテル地区に住んでいる日本人やビスネスを営んでいる日本人に話を聞きながら、「ジャパンタウン」命名について考える。

橋本保育園の橋本洋太郎さん


庭園業者が流入

ソーテル地区に日本人が住むようになったのは、もうかなり前のことだった。1910年ごろ、ロサンゼルスに移り住んだ日本からの移民一世たちは、比較的環境がいいウエスト・ロサンゼルスに目をつけたが、当時は白人が大半で、日本人はほとんど受け入れてもらえなかった。近隣のカルバーシティーも同様だった。それで、まだほとんど開発されていなかったソーテル地区に住むように。次第に日本食を扱う商店や日本食レストランができて、現在のバージル地区(ハリウッドの東)から移ってくる日本人も多かった。

そうした傾向をさらに強めたのは、庭園業者たちだった。ビバリーヒルズやベルエア、そしてブレントウッドの住民らの間で、日本人の庭園業者を雇うところが増えていき、仕事をする上で地理的に有利なソーテル地区、あるいはその近隣地区に日本人の庭園業者が多く住むようになった。橋本さんは「戦前、そうした庭園業者に植木や花などを供給するナーセリーが、このあたり一帯にたくさんあったということです。私がここの仕事を手伝うようになったのは1960年ごろですが、そのころでも7軒ほどありました」と振り返る。庭園業の仕事をヘルプする日雇いの日本人たちの宿となっていたボーディングハウスもいくつかあり、そのひとつは「ハシモト・ナーセリー」のすぐ前にあったという。


兄弟4人でスタート

「ハシモト・ナーセリー」は1928年、「O.K.ナーセリー」としてスタートした。まずソーテル地区に最初に移ってきた橋本さんの伯父が「ここにはビジネスのチャンスがある」と3人の兄弟を呼び寄せ、4人でナーセリー業を始めた。その後、戦雲怪しくなってきたため、4人の兄弟のうちの2人が日本に帰国。次男だった陽太郎さんの父親も帰国した。米国に残った2人は事業を続けたが、日米開戦で強制収容され、マンザナに送られた。戦後、収容所からソーテルに帰還し、事業をいち早く再開。橋本さんは「戦時中、メキシコ系の知り合いがナーセリーを守ってくれていたので、すぐに再開できたということです。ラッキーでした」と話す。

その後、日本に帰っていた2人も1961年に米国に戻り、再び4人で仕事をするようになったが、うち2人はその後サンフェルナンドバレーへ移って、そこでナーセリー業を開始、そしてそのうちの1人が今度はヘメットでも同じ事業を始めたが、現在も事業を続けているのは、ソーテルの「ハシモト・ナーセリー」だけである。


90%は白人客

橋本陽太郎さん自身は福島県の生まれで、父親よりも2年早く、1959年に15歳で渡米した。以来ずっと、ソーテルの「ハシモト・ナーセリー」の仕事に携わってきた。仕事を始めた当時は、日本人の庭園業者も多かったが、その後そうした庭園業者が雇っていたメキシコ系が独立して自分で仕事をするようになり、彼らが別のところで植木や花を購入するようになったため、庭園業者の客はどんどん減っていった。しかし、その分、白人の客が増えていき、現在は90%の客が白人という。

こうして、ナーセリー業に携わりながら、ソーテル地区の変遷を50年以上にわたって見続けてきた橋本さん。特に近年、若い日本人や日系人が急速に増えたが、その変遷について「特にいいも悪いも言えない」としながら「昔は静かな町だった」と、現在の急速な変化に多少戸惑いを覚えているようすもうかがわせる。

もうひとつ、橋本さんは、日本人や日系人だけでなく、最近は他のアジア系も増えているようだと話す。その橋本さんに、日本人街としての特徴が次第に薄れてきている最近のリトル東京について話すと、そうした状況に歯止めを掛けるものとして、「ジャパンタウン」の命名はいいのではないか、と評価する。

「これからもどんどん変わっていくでしょう。日本の大手企業もここに支店を開き、食事だけでなく、買い物でも日本のものが好きなアジア系が大勢訪れるようになりました。ビジネスを営むアジア系も増えてきています。そうした新しく来た人たちは、日本人も含めて、多くがコンドミニアムとかアパートに住んでいるので、そうした人たち向けに、うちでは室内プラントを多少増やしています」

「ジャパンタウン」命名に熱狂的に賛意を示していないものの、そうした変化に応じて、自分なりの事業を続けている橋本さんである。

 

© 2016 Yukikazu Nagashima

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このシリーズについて

ウエストロサンゼルスのソーテル地区が2015年、ロサンゼルス市議会の賛同を得て「ソーテル・ジャパンタウン」と命名され、標識がソーテル通りとオリンピック通りの角に設置された。日本の商店やレストランが集中する地区として年々賑やかさを増しており、まさに「ジャパンタウン」の命名はふさわしいだろう。だが、この地区は長年「リトル・オーサカ」と呼ばれ、すでに日本人街であることをアピールする名前を持っていたことも事実。それなのに、なぜ今「ソーテル・ジャパンタウン」なのだろうか。命名の経緯をたどるとともに、地域の住民や商店主などの反応を聞いた。

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執筆者について

千葉市生まれ。早稲田大学卒。1979年渡米。加州毎日新聞を経て84年に羅府新報社入社、日本語編集部に勤務し、91年から日本語部編集長。2007年8月、同社退職。同年9月、在ロサンゼルス日本国総領事表彰受賞。米国に住む日本人・日系人を紹介する「点描・日系人現代史」を「TVファン」に連載した。現在リトル東京を紹介する英語のタウン誌「J-Town Guide Little Tokyo」の編集担当。

(2014年6月 更新)

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