長島 幸和
(ながしま・ゆきかず)
千葉市生まれ。早稲田大学卒。1979年渡米。加州毎日新聞を経て84年に羅府新報社入社、日本語編集部に勤務し、91年から日本語部編集長。2007年8月、同社退職。同年9月、在ロサンゼルス日本国総領事表彰受賞。米国に住む日本人・日系人を紹介する「点描・日系人現代史」を「TVファン」に連載した。現在リトル東京を紹介する英語のタウン誌「J-Town Guide Little Tokyo」の編集担当。
(2014年6月 更新)
この執筆者によるストーリー
小早川ボーディングハウスの盛衰 — 石岡利夫さん、ジャパンタウン命名は評価
2017年11月7日 • 長島 幸和
ソーテル通りのラグレンジ通りからミズーリ通りまでの東側の広い一角には現在、大きな複合施設やアパート・ビルが立ち並んでいます。そのブロックには、かつて数多くの庭師らが住んでいたボーディングハウス(寄宿舎)がありました。「小早川ボーディングハウス」です。6つの大きな家屋や簡易住宅に最大60人が住んでいた大掛かりなボーディングハウスでした。広島からの移民である石岡利一(りいち)氏が1926年に一軒家からスタートし、その後1930年代初頭に大幅拡張、戦時中の一時中断を経て1979年…
「ちんちくりん」へ
2017年3月17日 • 長島 幸和
「白人に食べさせたい」 ソーテル通りの広島お好み焼き店「ちんちくりん」 金曜日の夜、ソーテル地区ではなかなか路上駐車のスポットが見つかりません。2度ぐるぐる回った末、やっとラグランジ通りのソーテル通りから2ブロック西にいったところにスポットを見つけ、そこに車を停めて、ソーテル通りまで歩きました。 ソーテル通りまで来て南へ向かうと、両側にはさまざまな店のネオンサインが連なっていました。通りの西側が特に賑わっているように見えました。長い行列のできている店も少なくな…
淡々と事業続ける「ハシモト・ナーセリー」の橋本陽太郎さん
2016年8月25日 • 長島 幸和
ウエスト・ロサンゼルスの一角、ソーテル地区。その一帯が2015年に「ソーテル・ジャパンタウン」として市の認定を受け、標識がソーテル通りとオリンピック通りの角に設置された。ソーテル地区は長年「リトル・オーサカ」として親しまれてきたが、近年日本人や日系人が経営する商店やレストランが増えたことを踏まえて「ジャパンタウン」と命名されたものだ。市の認定に向けて地元の人たちはジャパンタウン推進団体を組織して活動、認定に喜びの声を挙げている。 しかし、「ジャパンタウン」と命名されてもこ…
伝統的刺青を広めたい ~在米日本人彫師、彫巴さん~ その2
2015年10月23日 • 長島 幸和
その1を読む>> アメリカへ それからほぼ4年後、彫師としての修業も順調に進み、経験も積んできて、さて、これから先、自分はどのようなことをしているだろうと考えてみた時、ふと、15年後の自分の姿が見えたのです。彫師としての経験を積んでいく中で、刺青を取り巻く環境や、刺青に関しての日本社会の仕組みなどを、以前よりはるかによく理解できるようになったこともあります。そうした社会で彫師を続けている自分の姿。それは、かなり鮮明な映像でした。 「15年後の彫師の私は、正直言って、あ…
伝統的刺青を広めたい ~在米日本人彫師、彫巴さん~ その1
2015年10月22日 • 長島 幸和
ここに一冊の本があります。「MonmonCats」と題された英語の本です。さまざまな日本的デザインの刺青を施された猫の絵が118ページにわたって展開されています。著者は、現在カリフォルニア州サンノゼで刺青の彫師として活躍している三重県出身の彫巴(ほりとも)さん。「もんもん(紋紋)」が刺青の別称であることを知らない人は、「何の本?」と訝しがるかもしれませんが、この本には彫巴さんの、彫師としての信条が詰まっていると言っていいでしょう。出版元は、彫巴さんが現在在籍しているタト…
刺青の「真実」に生かされて ~ 島田淳子さんへの書簡 ~
2014年7月23日 • 長島 幸和
この一文を、先日お店にうかがった時に話していただいたことを、私なりにもう一度咀嚼しながら、そして、私の印象も付け加えながら、したためていこうと思います。私はあなたの話にとても勇気づけられました。たまたま私自身が個人的なことで沈んでいたせいだったかもしれません。それでも、あなたの話に、私のように勇気づけられる人が必ずいるでしょう。そういう人がひとりでもいることを願いながら。 まず、なんと言っても、あなたに話を聞く前に、私の中に刺青に関するいろいろな疑問がくすぶっていたという…
「和食」ユネスコの無形文化遺産に登録
2014年2月5日 • 長島 幸和
国連の教育科学文化機関(ユネスコ)は2013年12月4日、アゼルバイジャンのバクー(BAKU, Azerbaijan)で開いた政府間委員会で、日本政府が推薦していた「和食 “washoku”(traditional Japanese cuisine)」を無形文化遺産(Intangible Cultural Heritage)に登録することを決めた。食関連の無形文化遺産では、既に「フランスの美食術」「地中海料理」「メキシコの伝統料理」「トルコのケシケキ(麦がゆ)の伝統」が登録…
柳田由紀子著 『二世兵士 激戦の記録』 証言で綴る第二次世界大戦
2013年3月12日 • 長島 幸和
ロングビーチ市在住のジャーナリスト、柳田由紀子さんの新著「二世兵士 激戦の記録─日系アメリカ人の第二次大戦」(新潮新書、2012年7月刊)が好評だ。売上は好調で、増刷の話も出ている。日系兵士に関する書籍はいろいろ出ているが、特定の個人や部隊に焦点を当てたものが多い中で、柳田さんの新著は、真珠湾攻撃、強制収容から従軍、戦後の日本占領、そして朝鮮戦争と、二世の戦争についての全容を示す「通史」となっている。それは、総勢約150人の証言を基にして綴られた歴史であり、そこには数々のド…
父・天野芳太郎とのこと - 長女・玻満子さんの思い出 - その4/4
2012年7月31日 • 長島 幸和
その3>> 尽きない想い出父親についての玻満子さんの想い出は尽きない。そこには、玻満子さんしか知らない側面も少なくない。 天野さんは秋田から横浜に出てきて、かなり苦労した。造船技師を目指して専門学校に通っていたが、卒業式を間近に控え、学校を中退。だから、履歴書に学歴は入っていない。 そして、海外雄飛。戦後も日本人として初めてペルーに行くなど、とにかく桁外れな人だったことは間違いない。 戦後間もない頃、天野さんが、日米開戦に反対していた近衛文麿元首相を南米に逃がそうとしたこと…
父・天野芳太郎とのこと - 長女・玻満子さんの思い出 - その3/4
2012年7月24日 • 長島 幸和
その2>>天野さんの結婚結婚といえば、天野さんと美代子さんとの結婚の際にも、天野さんの人柄をうかがわせるエピソードがある。玻満子さんが夫のシュナイダーさんと日本を離れたのが1950年。それから4年後の話だった。 天野さんは玻満子さんが渡米した翌1951年、再び日本を出て、ペルーに向かった。米国の「ブラックリスト」にまだ載っていたらしく、パスポートが取れなかったため、カナダからパナマに行ったが、そこに警官が待ち受けていた。ところが、幸いにも、その警官はかつて天野さんに親切にし…
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