2016年10月に日本から帰国した時、父である中田米人がどれほど私を愛していたかを思い出しました。
父の人生は短かったものの、父は多くのことを成し遂げました。父は第二次世界大戦のアメリカ陸軍の退役軍人でした。父のいとこたちがジェローム強制収容所に送られている間、父は日本語が堪能な日系アメリカ人兵士の極秘部隊である軍事情報部に志願しました。
第二次世界大戦後、父は日本で私の母、新倉八重子と出会い結婚しました。父はダグラス・マッカーサー将軍の政府で民間通訳として働いていました。私は1948年の元旦に浅草で生まれました。両親はより良い生活を求めてアメリカへ渡りましたが、私は祖父母と一緒に日本に残りました。
父はアメリカへ出発する前に、日本の戸籍に私の出生を記録しました。父は1948年5月28日、カリフォルニアで29歳で突然亡くなりました。アメリカには21歳で未亡人となった妻が、日本には生後6か月の一人娘メアリーが残されました。私の人生は一変しました。
母が私をアメリカに連れてきたとき、私は2歳でした。母は再婚して新しい夫と結婚し、私のために妹が生まれました。私が大きくなると、母は父のことを話し始め、父や父の親戚、軍の書類の写真を見せてくれました。1枚の写真には、ロサンゼルスのエバーグリーン墓地で行われた父の葬儀のものがあります。棺の上にアメリカ国旗がかけられ、数人の二世兵士が直立不動の姿勢で立っていました。母は黒の服を着て、とても厳粛で冷静な様子でした。父のアメリカ国旗は母に渡され、やがて私にも渡りました。
母の死後、私は父の軍勲章を集め、Go For Broke で謙虚で勇敢な二世退役軍人たちと多く会い、羅府新報、全米日系人博物館、ディスカバー・ニッケイに父に関する記事を書きました。書くことで、父がそばにいてくれない寂しさを埋めることができました。
父は、私が高校や大学の卒業式に出席できなかったこと、小学校の教師になれなかったこと、ジョン・スナダとの結婚式で私をバージンロードでエスコートできなかったこと、そして孫のジェームズとデイビッドに会えなかったことを残念に思っています。これらは父が私に期待していた成果です。私の強さ、勇気、不屈の精神は両親、特に父から受け継いだものだとわかっています。私は何一つ変えたくありません。両親を知ることで、自分自身についてもっと学ぶことができました。
広島に住む夫と従兄弟の砂田正弘さんの協力で、私は自分の戸籍を取得し、父の唯一存命の90歳の従兄弟である出張佐代子さん、そして父と父の両親である中田末太郎さんと出張理恵さんのお墓を見つけることができました。
正弘は、蓮光寺にある父のお墓が何年もの間誰も訪れておらず、その遺骨は墓地に移されることになっていることを知りました。父が親族に見捨てられたことを知り、私の心は打ちのめされ、引き裂かれました。私も父を見捨てるつもりはありませんでした。
私は浄土真宗の信者で、OCBC(オレンジ郡仏教教会)のムツミ・ウォンドラ師の紹介状を持っていたので、蓮光寺の信者として迎え入れられました。その後、住職が中田家の法要を執り行いました。私の願いは、父の遺骨をアメリカに持ち帰り、祖父母の遺骨をお墓に残すことでした。父の90歳のいとこは、私が父を家に連れて帰ることを喜んでくれました。
ついに私の願いは叶えられました。砂田家の一員である正弘さんは、私のためにお墓参りをしてくれると約束してくれました。私の心は感謝と感謝と愛で満たされました。
今度は私がアメリカで父の世話をする番です。2004年にカリフォルニア州ローズヒルズに2つの墓地を購入しました。1つは私と夫用、もう1つは愛する人たち用です。最初の墓地の墓石には「日本で私を世話してくれた最愛の祖母、新倉吉」と「最愛の父、中田米人」と刻まれています。私が亡くなったとき父が私の隣に埋葬されることを知っていると、来世で父に会えるという安心感が得られます。
自分の戸籍を調べ、父の唯一の従兄弟と話をした後、私は中田家の最後の一人だと気づきました。私の血統は私で終わりです。しかし、父を家に連れて帰るのを手伝ってくれ、私を心から歓迎してくれた愛情深い家族、砂田家を見つけました。私の人生は一周して、幸せな結末を迎えました。
※この記事は2016年12月7日に羅府新報に掲載されたものです。
© 2016 Mary Sunada