戦後は各地に散在し、縮小
「百年史」が、各州別で紹介のために割いているページ数は、該当する州に在住する日本人や移民当初の日系人の数とは関係がないようだ。前回紹介したユタ州の日系人は、44ページにわたって紹介されているが、その西隣になるネヴァダ州(第10章)は、わずか5ページである。
1910年当時の日本人の数は、ユタ州が2110人で、ネヴァダ州には864人。この割合にしては、ネヴァダ州についての日系人の情報は少ない。その理由は、戦争を挟んだのちもユタ州では大きな日系人社会が存続したのに対して、ネヴァダ州は事情が違ったからだったようだ。
「日米開戦にともない、銅山地帯は強制立退きに遭い、戦後は一部商業に従事するもののみが帰還するにすぎず、他地方も減ったのが多く、ネヴァダ州日系人は各地に散在し戦前よりも振るわぬ現状である」
ユタ州では、戦後1950年の日系人が4452人だったのに対して、ネヴァダ州ではわずか382人だった。
鉱山労働や鉄道工夫として
現在はラスベガスとリノというカジノをはじめとした娯楽の集積地を抱えるネヴァダ州は、西と南をカリフォルニア州に接し、ほとんどが砂漠と山岳地帯で、戦前は鉱山業のほかはみるべきものがなかったという。
この地に日本人が入り込んだのは1900年代の初期で、鉄道工夫や家内労働者として働いていた。人材斡旋・供給をするサンフランシスコの日本勧業社がリノ市に支部を設けて鉄道工夫を送り込んだ。1940年頃のリノ市付近の日本人は30、40人ほどで市内には日本人の植木店、ホテル、洋食店、洗濯所がそれぞれ一軒あった。
ネヴァダ州東部には、1905年頃同じく日本勧業社からの200人余が送り込まれた。鉱山開発に伴う鉄道の新設工事のためだった。ネヴァダ銅山の開発後は、当初労働組合の抵抗で東洋人が就労できなかったのを、1912年に広島県人豊田静太郎が人材を送り込んだ。
この地では、日米開戦後の1942年になってそれまでとうってかわって、急に反日の気運が高まり一世が検挙され、ソルトレーク(ユタ州)の拘置所へ入れられるなどし、なかには自殺者も出た。
「荒くれ男の巣窟の感があった」イリー地方では、病魔に倒れた日本人も多く、日米開戦までに約50人の日本人墓碑を見るに至ったという。
砂漠のなかのラスベガスでパイオニアに
ラスベガス地方に日本人が最初に入り込んだのは1904、5年で、鉄道敷設の工事にともなってだった。一時は数百人居住したこともあったが25年ごろまには少数の日本人が働いているだけだった。
この地に、のちに現地のパイオニアであり、日本人の間でも名をはせる富安米馬がやってきたのは、1913年のことだった。
「百年史」では、富安氏について「南ネバダ植物園」の経営者としてその生い立ちから1960年頃までについて詳しく記している。
「富安氏は、熊本県鹿本郡植木町字清水に産声を上げた。希望と野心に燃える氏は海外雄飛の野望押さえ難く、一八九九年渡米してヴィクトリアに上陸し、直ちに北加州に赴き、各種労働に従事していたが後ちサンバナディノに至り、一九一五年迄同地に滞在して日本人幹事として在留日本人の世話をした。
一九一一年に加州で排日土地法が制定されると、氏は州外へ新天地を求めることに逸早く着眼し、一九一三年志を同じくする同胞数名と視察旅行に発ち、ネバダ州ラスベガスに至った。当時ラスベガスは見渡す限りの砂漠で植物の栽培など考える者すらいなかったが、富安氏は同地の将来発展性を見込んで移住することに決し、一九一五年現在地へ赴いた。
灌漑設備もない荒地、砂漠の真中にあるラスベガスの開墾は遅々として進まず、辛苦の連続であったが、一家を挙げてこの倦まず僥まずの努力が実を結んで、遂に同平原の開拓に成功し今日に及んでいる。
砂漠の都市ラスベガスは水源のない所とされていたが、富安氏は遂にラスベガス郊外に水源を掘り当て、同所に百六十英加を所有して、戦前は野菜を耕作、戦時は養鶏、南ネバダ植木園の経営に入った。」
富安氏が購入した土地には水が多量に湧き出て、その地区が住宅化されていった。すると土地のパイオニアとして、道路は「トミヤス・レーン」と名づけられ。ラスベガスに定住してからも在留同胞のために尽くし、功績を残しているという。
(注:引用はできる限り原文のまま行いましたが、一部修正しています。前回の予告で、今回は「ユタ州の日系人~その2」を紹介するとしましたが、都合により「ネヴァダ州の日系人」となりました。ご了解ください。)
* 次回は「アリゾナ州とコロラド州の日系人」を紹介します。
© 2015 Ryusuke Kawai