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ふたたび転々と職を変えた。そのため、ブラジルの家族の存在はどんどん薄らいでいった。2歳になった娘の写真も見たことがなかった。そして、気がつくと、サンバのインストラクターになっていた。今まで一度も考えたことがなかった。まったくの偶然だった。
それは、ある日、彼が電車を待っていた時のことだった。反対のホームに紺のユニフォームを着た女子高生を見かけた。長い黒髪のお下げで淑やかな感じがかわいかった。早速話しかけようと、ジェスチャーを使い、いろいろ試みたが、彼女は困ったような様子をしていた。クレイトは、更に、アピールしようと、ダンスのようなさまざまな動作を敏捷でしなやかな体で演じてみた。
まもなく、向かいのホームに電車が入って来て、女子高生は乗って行ってしまった。彼女がにっこりしたのかしなかったのか分からないが、彼は彼女に子どものようにうれしそうに手を振った。
そのとき、たまたま同じ電車を待っていた老紳士がいた。スーツ姿に蝶ネクタイをしていた。最初から彼はクレイトに注目していた。「なんて敏捷な動きをするのだろう」と、見惚れていた。青春時代に戻ったような不思議な感覚に陥った。目の前のホームで踊る若者は1950年代にヒットした「雨に唄えば」のジーン・ケリーに重なって見えた。
それは、電車をやり過ごしても、「ジーン・ケーリ」を見ていたかった明石トムだった。反対のホームに向かい、クレイトに声をかけた。クレイトは一生懸命答えようと身振り手振りをした。その日のうちに、明石トムのダンススクールのサンバのレッスンのインストラクターになったのだった。
大勢の女性に囲まれて、輝かしい日々となった。古い雑誌出版社の元オフィスだった広い空間は、またたく間に、大勢の人で埋まった。若いOLから中年の専業主婦など、女性たちは「クレイト先生」のファンになっていった。
クレイトは休まずにレッスンに通った。親切に、気長に陽気にみんなと接した。冗談を言ってみんなを笑わせ、最後には必ず相手の肩をポンとたたいて「イ・アイー」と。意味はまったく誰も分からなかったが、皆、嬉しそうに笑ってくれた。
明石トムは何度も神に感謝した。生徒が減り、ダンススクールの閉鎖も考えていたので、その状況から救ってくれた人の登場はありがたかった。
ある日、クレイトが朝のレッスンに来なかったので明石トムは不安になった。学校は順調だったので、レッスンは朝、昼、晩の3回も行われていた。「昼までに来なかったらどうしよう。大変なことになる」とますます心配だった。
実は、クレイトはある娘に夢中になっていた。誰かって?あの朝、駅のホームで見かけたあの女子高生だった。あの時から、彼は普段より早く起き、ダンススクールに向かう前に、女子高生と会って少し言葉を交わすようになっていた。日本に2年半もいたが、クレイトはまだ話が十分にできなかった。それでも、女子高生は彼がしょっちゅう言っていた「イ・アイー」を聞くのが楽しみだった。
その日、女子高生の恵美ちゃんが来なかったので彼は心配になった。電車を2回やり過ごして待ったが、恵美ちゃんは駅に来なかった。結局、駅を出て周辺を歩き回った。「住所でも聞いていたら良かったのに。彼女は控えめに、ただ母親と二人きりだと話していたっけ・・・」恵美ちゃんに会える日を待ち続けたが、彼女はそれ以来ついに現れなかった。
その後も、クレイトはダンススクールに通い続けてくれたので、明石トムはひと安心だった。ある時、レッスンが終わってまもなくしたころ、一人の女性が入って来た。スリムでパープル色のドレスに靴は金色だった。生徒に囲まれていたクレイトを見つけ、「あなたですか。サンバを教えるブラジル人というのは?」と。
彼は次の瞬間、音楽をかけて腰を振り始めた。まるで自分の人生はサンバ一筋であるかのように見えた。生徒たちはきゃあきゃあと大騒ぎしながら大喝采した。
女性は呆然として立ちつくしていた。
途中でクレイトは女性の手を取って踊りに誘った。女性は一歩前に出て踊ろうとしたが、とてもサンバとは言えず、踊りにもなっていなかった。もし、クレイトが器用でなかったならば、ふたりともつまずいて、床にばったりと倒れていただろう。
音楽は終わり、汗びっしょり、「イ・アイー」と叫んだ。
女性は息が切れそうになり、彼に寄りかかって靴を脱いだ。
クレイトは上着を持って外へ出た。女性は靴をかかえてその後を追った。それまで驚いて、ただ見守っていた生徒たちは不愉快そうな顔で見つめ合った。
数日後、クレイトは先に帰った。レッスンに通い始めた女性はメークを直しながら、明石トムが金庫を閉めて、戸締りをするまで待っていた。
外は風がぴゅーぴゅーと吹き荒れていた。明石トムは女性にバーに誘われて付いて行った。
翌日、明石トムが事務所の奥に入ると、金庫が破られていた。
偶然なのか、その日以来クレイトは来なくなった。「クレイト先生」が消えたと知った生徒たちはがっかり、大騒ぎになった。そして、更に、偶然なのか、あのパープル色のドレスの女性もレッスンに来なくなった。
© 2012 Laura Honda-Hasegawa