ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1232/

模範となる存在の重要性について(英語)

(英語)何かを成し遂げるためには、志を持つことがとても重要だと思います。現実的に思い描けるゴールや、望みを抱く何かがなければ、何かになりたいと思うことはできません。私は、1人も裁判官を知りませんでしたから、実現性のある選択肢ではありませんでした。私が弁護士になったことも驚きでしたし、初めから憧れていた職業ではないのです。そういう意味でも、若い人たちから、すごいな、人ってこんなこともあんなこともできるのか、と言ってもらえるように、私たちは表に出る必要があります。彼女も、彼も、みんな出来た、それならきっと私にもできるはず、こういう考え方ですね。私たち、いえ、私にはあまりそういう機会はありませんでした。ジョン・アイソさんは近くにいましたが、彼は、私からあまりにもかけ離れた雲の上の人でしたので、彼のようなことが自分にもできる、などと思うことはありませんでした。(笑)


アイデンティティ

日付: 2012年7月10日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ローレンス・ラン

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

キャサリン・ドイ・トッド判事は、1942年1月14日、フランクリン・D・ルーズベルト大統領による大統領令9066発令の1か月前に生まれました。大統領令の発令により、彼女と彼女の家族は、ワイオミング州ハートマウンテン強制収容所と北カリフォルニアのツール・レイク強制収容所に収容されました。

第二次大戦後、一家はロサンゼルスに戻り、トッド判事はロサンゼルスで育ちました。彼女は、1959年にロサンゼルス高校を卒業し、スタンフォード大学へ進み、1963年に史学部を卒業しました。その後、ロヨラ法科大学に進学した判事は、1970年、法学位を取得しました。

トッド判事の弁護士としてのキャリアは、ロサンゼルスのリトル東京で個人弁護士事務所を開業したところから始まりました。当時、ロサンゼルスで働く日系アメリカ人女性弁護士は、3人しかいませんでした。1970年代中頃、トッド氏と数名の日系アメリカ人弁護士は集結し、日系アメリカ人弁護士協会(JABA)を立ち上げました。JABA立ち上げ当初の主な目的は、日系人の裁判官を増やすことにありました。

1978年、ジェリー・ブラウン州知事は、トッド氏をロサンゼルス郡裁判所裁判官に任命し、トッド判事は、アジア系アメリカ人女性初の裁判官となる栄誉を受けました。3年後の1981年、ブラウン州知事の任命により、トッド氏はロサンゼルス高等裁判所の裁判官に昇進しました。2000年、トッド氏はグレイ・デイビス知事の任命を受け、カリフォルニア第2区控訴裁判所第2部の陪席判事となり、現在に至ります。(2012年7月)

ファン・アルベルト・松本

エスコバールについて(スペイン語)

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。