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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2024/3/4/hikari-fujimoto/

1985年渡米、シカゴ在住 ー 公認会計士で弁護士の藤本光さん

父親に背中を押されて米留学

シカゴ日本人会の会長でもある藤本さん。

帰国者の銀行口座をはじめとする会計面でのアドバイスを取材させていただいたのをきっかけに、シカゴ在住のCPA、藤本光さんと知り合った。藤本さんの説明は簡潔明瞭で、こういう会計士にアドバイスを求めたいと思う在米日本人は多いに違いないと直感的に感じ、会計士からのアドバイスではなく、今はもう米国市民であるという藤本さん自身について取材したいという動機で依頼し、オンライン取材が実現した。

最初の「アメリカに来るまでは何をしていたのですか?」という質問に対して返ってきた藤本さんの答えは、想定外のものだった。

「南太平洋のバヌアツ共和国に東急ホテル系列のホテルがありまして、私はそこでレストランマネージャーをしていました。バヌアツのホテルにいたのは大卒後2年くらいの間でした。そこで勤務していた時に、アメリカでもっとホテルの勉強をしたいと思うようになり、会社に休職願いを出し、渡米前、休暇で一時帰国したのです。その時にガンにかかっていることが分かり、緊急で二度の手術を受けました。ミシガン州立大学院に留学してきたのはその半年後でした」。

「ガンにかかり、その上手術までしたら、海外に行くのを中止して日本に留まりたいと思うのが普通ではないだろうか」と問うと、藤本さんは「手術後は月に1回検査を受けて転移していないかを確認していました。その時は自分の気持ちが後ろ向きになってしまっていて、一人で海外に行くのを諦めようとしていたのです。そんな時、父親が『すぐに行かなくちゃだめだ』と、私の中止の決断に反対してくれました。そうやって父に背中を思いっきり押されるようにして、私は渡米してきました」と答えた。

「それまでは2、3年社会で働いただけのお兄ちゃんだったのが、父の後押しと渡米によって考え方が大きく変わりました。自分にはそんなことは起こらないと思っていたのに、人間、簡単に死んでしまうものなんだなという経験を経て、やりたいことがあればやる、人生は積極的に楽観的に生きないとだめだ、目的を達成しなくてはいけないという前向きな考え方になりました」。大きな病気をして、性格が一変したそうです。

手術後に一大決心で留学してきた大学院で、藤本さんは次の転機を迎える。「ホテル会計のクラスで1番になったんです。それで自分は数字が得意なのだということに気付き、なれるならアメリカで会計士になろうと思うようになりました。それで、専攻をファイナンスに変更して、休職中の日本の会社には謝って、親には学費のローンのお願いをして、MBAを取得して修了しました」。修了後は日本に帰ることなく、藤本さんは大手会計事務所で公認会計士として働いた。


アメリカで成し遂げたこと

「当初は、3、4年アメリカで働いたら、日本に帰ってインベストメントバンキングなどに携わりたいなと考えていました。ところが、その時期を超えて5年も働くと、永住権も取得して、アメリカの方が合っていると実感して、帰る気がなくなってしまったのです」。藤本さんはもともと、二十歳の時にロサンゼルス郊外のパサデナに1年間留学していたことがあり、その時に「自由なアメリカは自分の性格に合っている」と思ったのだと振り返る。

それでは、渡米直前の出来事をきっかけに「目的を達成しなければならない」というポジティブな考え方に変わった藤本さんが、アメリカで成し遂げてきたことはどのようなことだったのだろう。

「まずはMBAを取得し、CPA(公認会計士)に合格し、その後、実は弁護士資格も取得しました。弁護士になろうと思った理由は、会計事務所では数字に関してはアメリカ人とも対等かそれ以上にできるという自信が付いたのですが、交渉ではどうしても力が足りないという自覚があったからです」。

藤本さんは、最初の会計事務所で3年をシカゴ、その後2年をハワイで過ごした。その後、シカゴに戻って日系企業に一度転職した後、四半世紀以上在籍することになるシカゴのCDHという会計事務所に入所した。

「そのタイミングで夜学のロースクールに通おうと思っていたのですが、その学費と私の給料がほぼ同じ額だったのです。そこで給料を上げなければ、と、在シカゴの日系企業全社にコンタクトしてマーケティング活動を展開したところ、これが大成功しまして、パートナーに昇進することができました。給料も上がって、学費の問題はクリア、無事に夜学に通い、弁護士になりました」。

会計事務所CDH時代。

手術後だからと渡米を断念しなかった藤本さんは、学費がないからとあきらめずに策を講じてそれを成功させたのだ。しかし、結果的に藤本さんは職業として弁護士を選択することはなかった。「ボランティアで刑事被告者の支援をするなどの活動はしましたが、実際の仕事に就くことはありませんでした。それは弁護士の仕事には自分はむいておらず、たとえ弁護士になっても、あんまり大成しないということに気付いたからです」。

引き続き、CDHに勤務しながら、藤本さんはジャパニーズプラクティスの部門を拡大し続けた。藤本さんが退職した2023年末時点、所属する100名の会計士のうち25名を日本人会計士が占めるまでになった


成功の軌跡を若い日本人に

「私はアメリカの会計事務所の社長になりたいという目標も持っていました。その目標は、2014年にCDHのプレジデントに就任することで実現しました。在職期間中に、今度はビジネスアナリスティックのコースをハーバードで取り、1年半かけて修了しました。しかし、思い起こせば、私が社長を務めることができたのは、ロースクールで修めた法律の知識があったからだとも思うのです。弁護士の資格を取って10年くらい経ってから、それが実際に役立ったということです」。

23年12月31日をもって、藤本さんはCDHを退職、その後の新しいキャリアはすでにスタートしている。「クロスボーダーの個人のタックスのアドバイスを提供できる事業を立ち上げました。これは日本人のみを対象とするのではなく、英語を使って幅広い層の顧客に対して展開していきます。そして、日本からアメリカに渡った人間でもアメリカ人相手に勝負できるのだという成功の軌跡を、若い日本人にも見てほしいと思います。私にとっての最後の戦いになります」。

最後に「藤本さんは何人ですか」と言う問いをぶつけたところ、間髪置かずに答えた彼の返答は次のようなものだった。「私はアメリカ人なんです。グリーンカード保持者の方を非難するつもりは全くないのですが、自分がグリーンカードのままだといつか日本に帰ればいいという安易な気持ちが残ってしまう気がしたのです。失敗しても成功しても、とにかく腰を据えてやっていくためには、アメリカ人になった方がいいと思って私は市民権を取って、退路を絶ち、アメリカ人になりました」。

 

© 2024 Keiko Fukuda

執筆者について

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

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