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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2024/2/1/preaching-the-washoku-gospel/

和食の福音を伝え続けて半世紀

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元北米報知編集長の楠瀬明子氏が、先日、著名なシェフ、末次健之氏に半世紀にわたり米国で日本食の魅力を広めてきたことについて語ってもらった。この50年間、末次氏はその功績を讃えられ、2009年にはシアトル総領事から表彰され、2016年には農林水産省から日本食普及親善大使として表彰され、2021年には同省から第15回日本食海外普及功労賞を受賞している。昨年の春には、日本政府からこれまでで最高の栄誉である旭日双光章を受章した。

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「これまでワシントン州のすべての大学で日本料理の実演と指導を行ってきました」と、米国での半世紀にわたる料理と指導を振り返りながら末次シェフは語る。彼は、授業や料理の実演を通じてアメリカ人と直接対面で教えてきたことに誇りを持っている。一方、母国日本では、見習いシェフは先生の肩越しに覗き込み、記憶を頼りにマスターから学ばなければならない。

中学生のタケユキ君は鹿児島県指宿市で育った。

末次シェフは、鹿児島県薩摩半島の南端で7人兄弟の末っ子として生まれました。両親はそこで味噌と醤油の醸造業を営んでいましたが、末次シェフが高校生の頃、その事業は苦境に陥りました。

高校時代に上京し、柔道で優秀な成績を収めた。当初は大学でも柔道を続けるつもりだったが、学校の図書館で雑誌を読んでいたところ、紅花の創始者ロッキー青木氏の記事に出会った。

十代の末次さんは、柔道を辞めてシェフになるという新たな計画を立てていた。技術を身につけたら、アメリカに移住するつもりだった。

「振り返ってみると、私が2年生のとき、担任の先生がアメリカでは皿洗いや清掃員も自分の車を持っていると教えてくれました」と彼は思い出す。「その言葉に私は驚き、ぜひ行ってみたいと思いました。」

料理人としての修行は、叔父が総支配人を務める熱海の老舗旅館「大観荘」で始まり、その後大阪に移り、約3年間そこで働いた。

しかし、末次さんは若く、焦りもあった。いつ渡米できるのだろうかと不安になり始めた。そんな時、辻調理師専門学校から毎年1人の生徒が海外に派遣されると聞き、入学。夜は働き、昼間は学校に通うという厳しい生活が始まった。学費は高額だったが、それだけの価値はあったと末次さんは言う。また、職場の理解も深かったという。

辻調理師専門学校は、フランス料理に造詣が深い元新聞記者の辻静雄氏によって、そのわずか4年前の1960年に大阪で開校された。同校での経験や辻校長との交流は、末次氏の料理人人生に大きな影響を与えた。入学当時、同校の生徒数は約250名。学業を終える頃、同校の推薦によりデンバーでの仕事が決まり、渡米の夢が現実のものとなった。

しかし、米国政府は別の考えを持っていた。「ビザを出してくれなかったんです」と彼は思い出す。「経験が足りないと言われました」

がっかりした彼は、結局、学校からパリの新しい日本食レストランで働くよう依頼を受けた。1966年のことだった。

パリの市場で買い物をするタクシェフ

1年半後、彼はマルセイユから船でスエズ運河を経由して日本に帰国した。エジプト、インド、香港に立ち寄りながら、帰国まで40日を要した。

帰国後、デンバーのレストランが再び辻の卒業生を募集していることを知った。今回はビザの資格があった。1967年末、末次氏は包丁と現金135ドルを持ってデンバーに到着した。

デンバーのレストランオーナーの姪のミナエも、デンバーに留学するために日本を離れることになった。ミナエとタケユキはやがて結婚することになる。

彼はデンバーのレストランと3年間契約していたが、アメリカでの生活に慣れてからは、アメリカの他の地域の日本料理シーンにますます興味を持つようになった。

1年半後、彼は4,750ドルでシボレー インパラを購入し、シカゴ、ニューヨーク、ワシントンDCまで車で出向き、日本料理の調理実演や講義を行った。DCでは日本料理レストランに就職した。

一方、ミナエとの遠距離恋愛は続いた。彼は電話代を稼ぐために食事を減らし、毎週末1時間電話で彼女と話していた。

武幸さんと美苗さんが娘さんと母親と一緒にポーズをとる

大陸横断の旅の後、彼はシアトルのミカドレストランで6か月間働きました。デンバーからシアトルへのドライブ中、ミナエとタケユキはラスベガスで結婚しました。シアトルに到着すると、当時ノースアメリカンポストの発行人だったヘンリー・タケミツ・クボタと森口貞子(宇和島屋創業者森口富士松の妻)が、二人のために正式な結婚披露宴を開きました。ミナエは森口家の親戚でした。

夫婦はカリフォルニア、デンバーに移り、1972年にシアトルに戻った。その頃、彼らにはエリコという娘がいた。

1976年、末次氏はブリエンにサツマレストランをオープンしました。彼はそのレストランの支店をデンバーにオープンし、10年後には200席のレストランをオープンしました。

ビストロ薩摩の三段弁当

その後、末次氏はシアトルのウェスティンホテル内にある大型日本食レストラン「日光」(1997年~2002年)の共同経営者となった。その後、ギグハーバーに「ビストロ サツマ」(2002年~2016年)をオープン。ノースウエスト航空やユナイテッド航空の機内食提供も請け負った。アメリカン航空では日本食コンサルタントを務めた。

末次シェフのキャリアは実に大胆な決断の連続だ。最も大胆だったのは、2016年にモーゼスレイクに移住し、弁当とケータリングを専門とする「Washoku Satsuma」をオープンしたことだ。

モーゼスレイクは、三菱重工業が開発した小型旅客機「三菱リージョナルジェット」の試験飛行場となっていた。

当初は、飛行場付近の日本人従業員約200人に日本食を提供するのが仕事だったが、試験飛行が終わった今は、地元の職業訓練校で教え続けている。

ワシントン州の多くの生徒からシェフ・タクとして知られている彼は、料理教育とデモンストレーションに情熱を注いでいます。彼は1984年以来、薩摩料理学校の旗印の下、州内を巡業し、デモンストレーションを行ったり、コミュニティカレッジや職業訓練学校で教えたりしています。彼の使命は「日本料理の伝道」だと言います。

末次シェフはモーゼスレイク職業訓練プログラムの学生を指導している

「文化の裏に隠れた食」をモットーとするタクシェフは、生徒たちが卒業後も関心を持ち、日本での見習いに応募するよう勧めたり、就職できなかったときにはその落胆を分かち合ったりする。生徒たちは一生懸命勉強し、1年間の勉強期間中に和食の楽しさと無限の可能性を教え込もうとしている。「生徒たちにはこう言っています。私は片道135ドルでアメリカに来ましたが、これだけのことを成し遂げることができました。」

シェフ・タクはモーゼスレイクの自宅のデッキでくつろいでいる

シェフ・タックがアメリカに来て56年が経ち、今年80歳になります。

「実は、私は短気で喧嘩っ早いんです」と彼は告白する。「だから若い頃は失敗もしました。でも、ここまで来られたのはたくさんの人のおかげなんです」

山や谷を越えてアメリカ中を縦横に渡り、タクシェフと彼の愛するミナエは半世紀以上にわたり和食の良さを広めてきました。彼は現在もモーゼスレイクでその活動を続けています。

 

*この記事はもともと2024年1月14日にThe North American Postに掲載されたものです

 

© 2024 Akiko Kusunose

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執筆者について

福岡県生まれ。1976年からアメリカに在住。1999年に北米報知の編集長を退職。

(2019年1月 更新)

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