ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2023/8/9/jinsei-no-aki/

人生の秋

今年は卯年なので、私は今年の10月に60歳になります。沖縄出身の祖父母によればウチナーグチ(沖縄の民族語)でトゥシビーといい1、干支の一つで、年男を意味します。これまでは健康に気をつけるとか、何か不運なことが起きないように気をつけることがより重要だったのですが、私は60歳になり人生に感謝することになります。れまでは厄年等については祖父母が注意するよう教えてくれました。

祖父母

若いときは誰もがその瞬間を生きることが多く、落ち着きがなく、前へ進もうと努力します。しかし今は過去を振り返ることも大切にしています。自分にも「人生の秋」がきたと感じており、膝の痛みがそのことを教えてくれます。肉体的な衰えもさるながら、心に響くものもあり、フラッシュバックのように昔のことを思い出します。まるで秋に落ち葉が一つ一つ落ちてくるようなものかも知れません。たくさんの思い出があり、そうした出来事が蘇ってくることがやはり「人生の秋」なのでしょう。

私が6歳のとき、ある親戚が母に会いに来たことを思い出します。母は堪えていましたが、泣いていました。家の中が急に慌ただしくなり、私は何が起こっているのかわからないまま、姉や妹と家の掃除をはじめ、できるだけ大きなスペースが必要だというので、物を片付け、店内のビール箱を移動し、、鏡に布をかけ、いろいろなものを買いに行きました。すると・・・祖母「オバ」が棺に入れられて家に戻ってきたのです。この時私ははじめて「死」というものを身近にみて、感じたことを覚えています。

棺は開けられ、そこに水の入ったボトルや、お菓子、その他いろいろなものを入れ、その後親戚たちがオバの衣服の襟を縫っていたことが鮮明な記憶として残っています。あの世に行くための儀式で、すでに亡くなった親戚にたくさんの「お土産」を持っていくとと教えてくれました。

悲しみに包まれた多くの人が参列し、見慣れた親戚だけでなく、会ったこともない人もたくさんいました。我が家のダイニングルームがお通夜の場所になり、少し暗くするために一部のランプだけが照らされていました。幼い私には整列している儀仗兵のように映りました。

オバとの最後のお別れを終えて墓地から戻ると、同じ部屋のテーブルには真っ白なテーブルクロスが敷かれていました。そこにはオバの写真があり、お焼香のための線香が置かれていました。線香の煙が空に立ち上り、私にはオバが天国に行く道にみえました。寂しさはありましたが、毎週のように親戚や友人知人が集まるたびに楽しい思い出が蘇り、四十九日(法事)になると笑いも聞こえるようになりました。その日までオバは我々とともに過ごしていたのだと言われました。そして四十九日には、朝食、昼食、そして夕食をともにしました。

そしてオバもオジと同じ仏壇で祀られることになり、線香を炊くたびにその煙をたどって我々のところに来ると教えてくれました。

徐々に我が家の日常ルーチンも正常に戻り、毎週のように来ていた親戚や友人らの姿もなくなり、やはりもうオバはいなくなったのだと自覚するようになりました。しかし、いつも我々のところにいるということを受け入れるにはかなり時間がかかりました。

寂しくなったり、学校で何かうまくいかなくなると、私は仏壇に向かってオジとオバに助けてほしいとお願いをしました。しかし、ある日父の一番上の兄が、長男だからと仏壇を自分のところへ持っていってしまったのです。数年後にこの伯父さんは亡くなったのですが、奥さんである伯母は私の父を立ち入り禁止にしたのです。家の所有権問題で対立があったようですが、私は仏壇の前でお参りすることができなくなってしまいました。

父は亡くなるまで仏壇の前でお線香を焚くことはできませんでしたが、30年間欠かさず「父の日」、「母の日」、「死者の日」、そして「沖縄のお盆の日」には墓参りをしました。父は亡くなる直前に「お兄さんが迎えにきたので、ようやく一緒にみんなと会える」と言ったことを覚えています。これだけはほんとうに「しょうがない」と思いましたし、当時どうすることもできなかったのです。

我々は、リマ市内中心部近くの賑やかな商業地区でボデガ、つまり雑貨屋を営んでいました。必需品等を売る店で、お酒類も販売していました。奥の部屋ではお酒を飲むこともでき、人によっては反応はまちまちでしたが、お酒に酔って面白くなる人もいました。中には普段は父のことを「チノChino(中国人という意味だが東洋人全般のことを指していた)」と親しみを込めて呼んでいたのに、アルコールが入ると時にはその表現が人種差別的、軽蔑的になる人もいました。が、幸いにもほとんどの場合前者でした。

とはいえ幼い頃は父が侮辱されているのを何回かみたことがあります。でも、物静かな父は何も言わず黙って聞き流していました。祖父母や叔父たちも同じだったようですが、ほとんどの日本人は父と同じように対応していたようです。私はとても悔しく思い、みんな臆病者だと思ったこともあります。でも年月が流れ、自分も大人になり「口は災いの元」ということを学び、自分たちを向かい入れてくれた国でことあるごとに口答えをしていれば問題が大きくなってしまうことも学んだようです。

無口な父は、このボデガを経営していた地区は母や妹たちにとってあまりよくない環境だと思っていました。酔っ払いも多く、悪気がなくとも失礼な表現も多かったし、ビールの匂いも強く、タバコの匂いと煙、奥の部屋から漂う尿の匂いは悪臭そのもので、酒を飲む人たちの声も酔うと益々デカくなっていたのです。

私が11歳のとき父の外出が多くなりました。実は後からわかったことなのですが、別のビジネスができる店を探していたのです。父は衣類を売る店をはじめました。これは家族にとって本当に嬉しい変化でした。新しい店は、中央市場の近くという立地条件で、同県人の頼母子講2のおかげで開店資金を賄うことができました。酒類を含む必需品の販売からワイシャツやネクタイを売る店へと転業したのです。みんながもっと安心できる業種にするのは、父の夢でもあったようです。父は「悪銭身に付かず」という教えを身にみけていたようで、酒類を売ることで得た利益は良くないし、利益も薄くあまり貯まらないと思っていたようです。

しかし新しい店の業績は思わしくなく、赤字の解消と商売が安定するまではボデガを続けました。我々は子供だったので、新しい店に行くのが一つの楽しみでした。でも、ボデガの留守番と接客を一人でやっていた母は、後にとても寂しくて心細かったと話してくれました。母は体調が良くなかったので、営業は数時間程度だったようです。そして母は家計の足しに何かできないか考えた、沖縄のお菓子サーターアンダギーをつくって売ることにしたのです。

両親

これが大当たりで、この丸い揚げ菓子を目当てに来る人が増えたのです。地元の人は「日本の丸菓子(ボンビタス・ハポネサスbombitas japonesas)」、「丸いフライ菓子(ボリータ・フリータス bolitas fritas)」、と呼んでいました。私たちにとっては、祝い事やお正月、トゥシビー、ピアスの交換、結婚、洗礼等、家族の全ての記念日には欠かせない食べ物だったので、みんなが買ってくれました。子供だった私の友達の中には「丸い天ぷら」、または「サーター天ぷら」と呼ぶ子もいました。この沖縄の揚げ菓子以外にも母はいろいろなデザート系のものも販売するようになりました。

店は午後6時からでしたが、開店前にすでに揚げたてのサーターアンダギーを買うための列ができていました。綺麗な丸い形ではなく、ちょっとデコボコが多いサーターアンダギーは外側がカリッとして中身は柔らかくてしっとりしていました。私も出来たてが好きで、形が悪くても食べるとなんか笑顔がこぼれるような味でした。お客さんもそれを目当てに買いに来てくれていたのです。形が悪くても、商売は丸く収まっていました。おかげさまで、母のこのイニシアチブによって家計はかなり助けられたと思います。あの時代を思い出すと、とても懐かしく、自分にも笑顔が溢れます。 

過去の記憶は、秋の落ち葉のように散っていきますが、悲しいものも楽しかったものもたくさんあります。多くの体験と恋しさが残ります。私にも秋から冬の時代が来るのでしょうが、その前にこうした記憶をもっと蘇らせたいと思います。いずれはもう思い出せないかも知れないので、今のうちにできるだけ多くの秋の葉(記憶)を集めたいと思います。

注釈:

1. 沖縄のウチナーグチで「トゥシビー」とは中国の干支ごと(12年に一回)の生年祝いの日である。

2. 頼母子講は相互扶助的な金融サークルであり、日本で誕生した仕組みを日系人は南米でも導入した。

* * * * *

このエッセイは、シリーズ「ニッケイとして育つ」の編集委員による英語のお気に入り作品に選ばれました。.下記は編集委員のコメントです。

ハルミ・ナコ・フエンテスさんのコメント

日系人として育ち、継承してきたものはどのような意味を持つのでしょうか?この答えは一つではありません。世界中の日系人にとって自分のルーツとのつながりは千差万別であって、今回の各エッセイが示しているようにその多様性はとても豊かです。幼少期の体験や、芸術による様々な学び等、そして自分のアイデンティティーに対する発見と再発見についても描かれています。

今回選んだ「人生の秋」という作品は、その家族の伝統やしきたりが垣間見られますが、そこには悲しみも希望もあり、この家族だけのことであってもやはり多くの日系人がそれに共感すると思われます。

この物語を読んで著者も指摘しているように、私も「懐かしい」と思いました。自分の過去の体験を忘れないために遠い記憶をたどり、読者と共有しているのです。だから読んでいて感動しましたし、ノスタルジックな気持ちになったのでしょう。60歳は人生の秋とよく言われますが、思い出や過去が蘇ることで春にもなりえます。その物語の特徴などは日系コミュニティーの大事な記憶をもっと豊かにしてくれます。

 

© 2023 Roberto Oshiro Teruya

家族 ペルー
このシリーズについて

「ニッケイとして育つ:私の中の日本」をテーマとしたニッケイ物語12は、参加者のみなさんに次の3つを含むいくつかの質問を投げかけ、今回のテーマについて思いを巡らしていただきました。「どのようなニッケイコミュニティのイベントに参加したことがありますか?」、「どのようなニッケイの食にまつわる幼少期のエピソードがありますか?」、「子供の頃、どうやって日本語を学びましたか?」

ディスカバー・ニッケイでは、2023年6月から10月までニッケイ物語への投稿を受け付け、11月30日にお気に入り作品への読者投票を締め切りました。今回、ブラジル、ペルー、米国から合計14編(英語7編、スペイン語3編、ポルトガル語5編、日本語0編)の作品が寄せられ、そのうち1編は複数言語で投稿されました。

「ニッケイとして育つ:私の中の日本」に投稿してくださったみなさん、どうもありがとうございました!

ディスカバー・ニッケイでは、編集委員によってお気に入り作品を選出してもらいました。また、ニマ会コミュニティにもお気に入り作品に投票していただきました。今回選出された作品は、次の通りです。

(*お気に入りに選ばれた作品は、現在翻訳中です。)

 

編集委員によるお気に入り作品

ニマ会によるお気に入り作品:  

当プロジェクトについて、詳しくはこちらをご覧ください >>


* このシリーズは、下記の団体の協力をもって行われています。 

     


ニッケイ物語の他のシリーズを見る >>
 

*ロゴデザイン:ジェイ・ホリノウチ

詳細はこちら
執筆者について

 ロベルト・オオシロ・テルヤは、ペルー出身の53歳、日系三世。両親セイジョウ・オオシロとシズエ・テルヤは、父方も母方も沖縄出身(豊見城と与那原)。現在は、ペルーの首都リマ市在住で、市内で衣類販売の店を経営している。妻はジェニー・ナカソネで、長女マユミ(23歳)、長男アキオ(14歳)である。祖父母から教わった習慣を受け継いでおり、特に沖縄の料理や先祖を敬う象徴である仏壇を大切にしている。子供達にもこのことを守って欲しいと願っている。

(2017年6月 更新)

様々なストーリーを読んでみませんか? 膨大なストーリーコレクションへアクセスし、ニッケイについてもっと学ぼう! ジャーナルの検索
ニッケイのストーリーを募集しています! 世界に広がるニッケイ人のストーリーを集めたこのジャーナルへ、コラムやエッセイ、フィクション、詩など投稿してください。 詳細はこちら
サイトのリニューアル ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。 詳細はこちら