日本から見れば地球の裏側に位置する南米の大国、ブラジル。ここには190万人もの日系人が暮らし、世界最大の日系社会を構成している。どこの国からの移民でも数が多くなれば、自然と人々は集まり母国と同じようなコミュニティーが形成され、異国の中の小さな母国社会が誕生する。
母国と似たような店ができたり、街並みが生まれたりする。しかしそれは、似て非なるものである。気候風土が異なり、文化が異なり、社会制度も異なる条件のもとで誕生するのは母国のものをアレンジした、“母国風”といっていいだろう。
そして時の経過とともに世代が変わり、移民の子孫はその国の人間に徐々になっていき、1世が培った文化はさらにアレンジされ、やがて2つあるいはそれ以上が融合した新たな文化が生まれる。コミュニティーもまた変容していく。
『移民がつくった街サンパウロ東洋街 地球の反対側の日本近代』(根川幸男著、東京大学出版会、2020年刊行)は、そうした移民社会の変化を、ブラジルの日本(日系)社会を通して教えてくれる。
新たな文化へのいざない
著者は、1996年からサンパウロで4年間生活し、そこで研究した総決算として修士論文「サンパウロ東洋街の形成と変容——都市サンパウロのアジア系移民の一局面」をまとめる。これを土台として、「世界最大の日本人街と呼ばれたサンパウロ東洋街の形成と発展、その変容について、主に文献資料や人びとの記憶を手がかりにして記述」したのが本書である。
「この小著を通して、地球の反対側のもう一つの日本へ、すなわち日本とブラジルのはざまで近代を生きたもう一つの日本人をめぐる旅へ読者をいざないたい」という著者の言葉からは、サンパウロの日本人、移民社会への熱い思いと興味が伝わってくる。
こうした思い、つまり異国の地で日本と他国との間で、戦争を挟んだ激動の時代を生き抜いてきた人たちへの共感と関心は、移民研究に携わっている研究者が多かれ少なかれ抱いているものではないだろうか。
日本人街発展の歴史
考えてみれば不思議なことで、日本からもっとも離れたところで、もう一つの小さな“日本”が誕生したわけである。こうした日本街は、サンパウロだけでなく世界の各地に誕生した。本書では、「サンパウロの日本人街」という本論の前に、ロサンゼルスのリトルトーキョーをはじめ、フィリピンのダバオや上海にあった日本人街について紹介する。以前本コラムで触れたロシアのウラジオストクなどもその例である。
以下、本書に沿ってブラジル、サンパウロの日本人の歴史をなぞってみよう。
サンパウロ市の人口は、1872年時点ではわずか65,000人だった。それが急増したのは移民の流入による。背景にはブラジルでのコーヒー産業の成長があり、その中心がサンパウロ地方だった。コーヒー農園では多くの労働力を必要とし、当初は奴隷に頼っていたが、奴隷解放令が発令されると、それを補う形でヨーロッパ系の移民を担い手として導入した。
1819年から1947年の間でのブラジルへの移民数を国別にみると、イタリアがもっとも多く約151万人、続いてポルトガルが146万人、スペインが約60万人、ドイツ約25万人、そして5番目で日本が約19万人となっている。
日本では、明治維新(1867年)になって海外移民がはじまり、一方ブラジルは1889年に共和主義革命による新政府が誕生、1895年に日本と国交が樹立すると、1900年サンパウロ州政府は、日本人移民にもヨーロッパ移民と同様に補助金の下付を決定した。その結果、1908年ブラジルへの最初の日本人移民が笠戸丸に乗って神戸港を出航、51日間の航海ののちサンパウロの外港であるサントスに到着する。
日本からの移民はほとんど農業移民だが、一部はサンパウロ市に入り自営の仕事をはじめ、やがて離農した者も同市に入ってくるようになる。アメリカでも同じだが、日本食の需要に応えて、米や味噌、醤油を扱う商売がはじまり、さらに料理店などが開かれると、日本人が集まり、自然とさまざま需要が生まれる。こうして日本人街が徐々に出来あがっていく。
最初に誕生したのが、コンデ・デ・サルゼーダス通りを中心とする、「コンデ界隈」といわれる地区で、1910年代には形作られたという。その後、街の発展をうけてサンパウロの都市部で生活する日系人(日本人)は増え続け1933年には600家族3000人に達した。笠戸丸移民からわずか15年後のことだ。
さらに日系住民が集中していくことで、日系人のための各種商店や銀行、旅館、そして学校など生活に必要なものがそろい発展していく。しかし、それも戦争によってとまる。第二次大戦で連合国側に立ったブラジルにとって日本は敵国であり、ブラジル国内の日系社会も迫害を受けた。
コンデ界隈の日本人に対しては、治安上の理由から立ち退き命令が出される。日本語を公共の場で話すことも禁じられた。戦争が終わるとやがて日系人に対するこうした規制も緩められていった。しかし、日系社会には別の問題が発生した。日本の勝利を信じてきた人たち「勝ち組」と、敗戦を認める人たち「負け組」の抗争である。
1950年代に入り、この抗争も落ち着いてくると、立ち退きにあったコンデ地区にかわって、リベルダーデ地区、特にガルヴォン・ブエノ通りに、ふたたび日系人が集まってきた。そして53年には、日本からの戦後移民が再びはじまり、70年代に東洋街という新しい日本人街の形成につながっていく。
その要因としては、まず、53年にできたブラジル日系初の都市型総合娯楽施設「シネ・ニテロイ」の開業があった。このほかブラジル日本文化教会センター設立(64年)、地下鉄リベルダーデ駅開通(75年)、日本企業のサンパウロ進出(70〜80年代)が考えられる。
こうして発展していった東洋街には、その名の通り日本だけでなく、韓国系や台湾系の移民も流入してきた。
東洋街はどう変容するか
以上のような歴史を踏まえ、著者は後半で、近現代のブラジル社会の中で日系コミュニティーによって日本文化がどのように形として表わされてきたか、また、それがブラジル文化として再統合されるのかという問題を、七夕祭り、東洋祭りなどを通してとらえている。
今年5月の『日本民俗学』310号で著者の根川氏は、「越境する都市祭礼—ブラジル・サンパウロ東洋街という時空から—」と題し、東洋街のエスニックな祭礼について、コロナ禍以後の東洋街の変容をふくめて考察している。
日本からみれば地球の反対側で、日本文化がどのようにアレンジされ発信され、また受け入れられているのか。文化によっては、母国より移民先の国で残されている伝統もあると聞いたことがあるが、同時に母国にはない発展の仕方もあるだろう。似て非なる、魅力あるブラジルの日本文化についての本書の考察は、ブラジルの日系文化同様に興味深い。
次回は『移民がつくった街サンパウロ東洋街』著者・根川幸男さんへのインタビューです >>
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