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松井 尭(たかし)さん

コメント

松井 尭(たかし)さん(写真:Densho)

「『勝てば官軍』だけがねぇ、戦争に負けたものを裁くのは、不公平だとか…。例えば広島に原爆を落としたと、それで何10万人という市民が死んだと。これはこういうことに関わった人たちも戦犯にかけないといけないということを言うんですけど、アメリカは『官軍』だからしょうがないんだよねぇ。そういうことをね、あの当時、東京裁判で言ったアメリカ人もおるのよ。本当はね、判事って言うのはね、連合軍以外の人がやるべきだと」

日本降伏後の横浜でB級裁判にアメリカ軍属の調査官として加わった松井尭(たかし)さんは、当時を思い出す。戦後の日本に進駐軍の一員として渡り、復興に携わった。早期復興の成功の影にどれだけの帰米二世兵士の努力があったのかは、見過ごされている事実だ。

松井さんの両親は福岡県出身。1910年に移民しオレゴン州フード・リバーでリンゴ園を営む。松井さんは3歳の時、母に連れられ両親の故郷へ出発。1934年中学卒業と共に帰米し、叔父の住むシアトルに移るが、英語が分からないため、ジェファーソン通りと12番街にあった外国人学校へ通う。両親はその2年前に松井さんの兄弟4人を連れ、アメリカを引き揚げ故郷で果実園を開いた。松井さんがワシントン大学4年生の時、太平洋戦争が勃発した。

「やぁ、大変なことになったなぁ」とラジオのニュースで真珠湾攻撃を知った松井さんは第一印象を語る。1941年12月7日、日曜日朝11時ごろ。「『困った』っちゅうのは適当な言葉かどうか知らんけどね」と、アメリカ人ではあるが中学卒業までを日本で過ごした松井さんは、戸惑いを隠せない。

翌年3月には徴兵された。「僕はリロケーション・キャンプ(日本人・日系人の強制収容所)ってのは知らなかった。アーカンソー州で基礎訓練を受けている時に、友達から手紙をもらってね。その、いわゆるみんな立ち退きだとうことを始めて知ったんです」

同年7月にはワイオミング州に送られる。「結局、43年に442部隊ができるまで、二世兵士は行くとこがなかったんですよ」。他のアメリカ人兵士たちが次々と外地に配属されるなか、残った二世兵士たちはフォート・ウォーレンに送られたが、何もすることがなかったという。

その後、松井さんは日本語学校の教官としてミネソタ州キャンプ・サベージに配属される。「豪州(オーストラリア)のATIS(翻訳センター)に行った人もいました」。アメリカ軍は日本と戦うかたわら、ビルマ、南太平洋諸島へ派遣する日系兵士を含むアメリカ兵の日本語の研修、オーストラリアでは翻訳センターを開き、戦地で拾い上げた書類等を翻訳していた。

松井さんは終戦をミネソタ州のフォート・スネリングで迎えた。もう服役しないでよいという安堵感と同時に、「(我々)二世はどうしていいかわからん」というのが正直な感想だった。「シアトルに帰ろうかぁどうしようかぁと、みんなやっぱり疑問もっとったねぇ。どういう待遇を受けるやらねぇ」という不安のもと、「(両親、兄弟のいる)日本に行かせてもらえるなら」という条件付で、もう1年軍隊に留まった。

46年9月、日本に着くなりアメリカ軍は松井さんに2週間の休暇を与えた。「僕は感心したねぇ。あの頃の軍隊ね、我々日系の兵士に日本に親戚のはおるかと、知っている人がいるんかと。で、私『うん』と言ったら会いにゆけっちゅってね、すぐ休暇くれましたよ」

松井さん自身「故郷」と読んでいる果樹園は、門司、小倉(福岡県)を通り、日豊線で大分方面に行く途中にある。そこで12年ぶりに会った両親、兄弟たちは元気だった。戦時中に病死した妹、そして弟1人が欠けていた。4歳年下のその弟はガダルカナル付近に出征し、帰って来なかった。

その時初めて両親から聞いた松井さんは、「惜しいことをしたなぁと思ったよね。私の弟はね、私がそういうことを言うとおかしいかもわかんないけどね、小学校からね、一番だった。ずーっと。だからママが、惜しいことをしたって、泣いとった」。兄弟皆アメリカで生まれたが、戦時中家族の中でアメリカに一人残った松井さんには、複雑な心境を表す適当な言葉がない。

「だけど、私みたいのがあちこちおりましたよ。シアトルに我々のような帰米二世1っていうのが何人いたか知らんけどねぇ。前の北米報知の向かい側にUSホテルってのがあった。そこの地下にちょっとした部屋があってね、そこで帰米市民協会っていうクラブがあったんだ。そこへ行けばいろんな人に会えたんですよ」

戦前は30人から40人ほど集まっていたという。だから「淋しくはなかった」と言う松井さんは、強がりとは違った「軍人」の表情で話す。

B級裁判には「第8軍戦犯弁護団調査官」という肩書きでアメリカ軍属(民間人)として加わった。そこで日本軍が大東亜戦争に至るまでの経過、日露戦争後、5・15事件、2・26事件、日中戦争に至るまでの日本軍の情勢、それに対する連合軍からの経済封鎖、陸軍・海軍との仲たがい、追い詰められた日本の軍が最終手段としての真珠湾攻撃など、調査を通じて日本側の見解を学んだ。

近衛内閣から呼ばれた山本五十六陸軍大臣の「日本は戦争に突入しても1年か1年半しか保障できない」という意見のもと、東条英樹総理大臣の「追い詰められて自衛、日本を守る為に戦争を始めた」という見解などを目の当たりにして、「『いわゆる窮鼠 猫を噛むという状態』という日本側の言い分」も理解できないことはない。「(この戦争の)もっと前の前の大きな背景を知っていたなら、白人系の人間だろうが何系の人間だろうががね、考え方が違っていたでしょう」と言う。

「やはり背景をどれだけ知るかによるってことだねぇ。東京裁判でもアメリカ人が随分アメリカのやり方を非難した人がおりましたよねぇ」。裁判は2年半続いた。

今でいう、バイリンガル、バイカルチュアルとして、戦後の日本復興の大きな手助けをした松井さんには敗戦後の日本の町で出会った光景の思い出がいくつかある。日本人から虐められていたハワイからのアメリカ人修理工、アメリカ人からきつく扱われていた旅館の従業員などの仲裁は日常茶飯事だった。

また「パンパンガール」の話もある。戦後まもなく銀座にダンスホールがあり、午後6時までは日本人が使い、6時以降は進駐軍が使うことになっていた。途中のガード下に日本人の女性が待ち伏せし、松井さんたちが通りかかると「兵隊さーん」と声をかけられた。「『なんだお前らは。帰れ』って叱り散らすわけだよね。そうすると、『私たちは敗戦国の女性ですわ』って帰らんのよ。『それじゃあ金やるから帰れっ』って言ったら帰ってった」。松井さんは「日本人の女性がそんなことをやるなんて恥ずかしいと思って帰した」と言う。

また、銀座の露天では勲章を売っている退役軍人がいた。戦争で苦労して得た勲章だと思った松井さんは「こういうの、売らんでください」と言って3倍代金を払い、勲章は持って帰れと言ったが「あんたにあげます。あんたみたいな人は今までに見たことがない」と涙を流して別れた。後日勲章を返しに行ったがその人には二度と会えなかったため、その勲章は松井さんが変わりに今も大切に保管している。

戦犯調査官としての任務を終えた松井さんは50年に日本を引き上げ、ワシントン大学に戻り晴れて卒業。その後、貿易商、そして日本企業の駐在が始まった頃から退職するまで三菱商事に30年間勤めた。キャンプ・サベージで日本語学校部門のディレクター秘書として勤務していたサンフランシスコ出身の満枝夫人とは、来年結婚60周年を迎える。

その後は日本とアメリカの相互理解の手助けを生涯の情熱として、現在も日系コミュニティーに貢献している。関わった団体は二世退役軍人会を初めとし、日米協会、日系人会、日本語学校、シアトル・神戸姉妹都市協会、福岡県人会、桜祭・日本文化祭など数え切れないほどだ。53年、日系人としてただ一人「タイム・マガジン」から「100 Newsmakers of Tomorrow」賞、日本政府からは勲五等双光旭日賞を94年に受賞。

来年(2005年)米寿を迎える松井さんとの対話では「軍人」の面差しの影に、帰米二世の苦悩と誇りが見え隠れしていた。

注釈:

1. 帰米二世:日本からの移民1世を両親に持ち、少年期に両親の国、日本に滞在し日本の教育を受けアメリカに戻った二世

 

*本稿は、2004年『北米報知』へ掲載され、2021年9月13日に再び『北米報知』へ掲載されたものを許可をもって転載しています。

 

© 2021 Mikiko Amagai

連合国軍の日本占領(1945-1952) 軍隊 (armed forces) 世代 日系アメリカ人 帰米 二世 退役軍人 (retired military personnel) 退役軍人 第二次世界大戦
このシリーズについて

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、約12万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は主に2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「ノーノー・ボーイ」と、強制収容所から志願または徴兵され「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」または「MIS(米国陸軍情報部)」でアメリカ軍へ貢献した若者たちだ。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を13回に分けてシリーズでお届けする。

*このシリーズは、2003年に当時はまだ健在だった二世退役軍人の方々から生の声をインタビューした記事として『北米報知』に掲載されたもので、2020年に当時の記事に編集を入れずにそのまま『北米報知』に再掲載されたものを転載したものです。

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執筆者について

東京都出身。2001年から2005年まで北米報知でジェネラルマネージャー兼編集長を務める。北米報知100周年記念号発刊。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。シアトルの二世退役軍人のインタビューが、最も心に残っているという。昨年11月、44年のシアトル生活を終え、現在は東京在住。

(2021年1月 更新)

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