ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2019/10/11/sukeji-morikami-18/

第18回 京都へ帰ったときには……

フロリダ、『パームビーチ・ライフ』誌(1993年5月号)に紹介された森上助次(ジョージ・モリカミ)の記事。

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。1961年。五ヵ年計画で所有地に庭園らしきものを造る計画を伝える一方で、中米旅行やこれまで一度も実行したことのなかった日本の故郷への帰還について、いよいよその決意が固まったかのように伝えている。

* * * * *

1961年1月6日

〈孤独もなれると悪くはない〉

玲さん(姪)、今日は1月6日。日本も正月騒ぎが済んで気抜けしたようだろう。日本は前代未聞の好景気、今や世界羨望の的だ。新聞を見ると、建築ブームで大工と左官が大払底、十万人の大工と五万人の左官が至急入用との事、全く信じられぬような話だ。十年前までは喰うに困った日本、世は持ち回りだ。何もクヨクヨすることはない。

私の歯はまだ治らぬ。一時は治ったと思ったが、抜いた奴の根っ子が残っていてそれが痛むのだ。完全に治るのは一ヶ月を要する。あんた達も歯は大切にしなさい。故障が起きたら早速、治すことだ。

私は相変わらず休んで居り、元日も終日寝て過ごした。孤独もなれると悪くはない。遊んで居ても食うに困らぬ境遇を感謝する。世界の人口の4分の1は今飢えて居る。

五十年後の世界を想像してみる。また、五十年前の昔を思った。田舎の学校で幼い子供達とABCの勉強をして居た。その町の町長の娘と恋に落ちたその後、一度も逢わぬ。どうしているか、生きて居れば六十五歳だ。

南フロリダは今シーズンの真最中で、人間とカーでごちゃごちゃだ。事故も毎日のようで死人と怪我人だ。京都は、今は静からしいが、玲さん、正月のお雑煮は如何だった。一度で好いからうんと食いたいと思う。
        

1961年1月20日

〈五ヵ年の庭園開発計画〉

美さん(義妹)、小包、一昨日着きました。ほとんど見た事も、味わった事もない珍しい物ばかりです。有り難くいただきます。

私は至って頑健、遊んでいるのは何より苦しいので五ヵ年計画で所有地190英町(エーカー)の土地の開発に着手し、先年、初めて直径3吋(インチ)、深さ130吋の掘り抜き井戸を掘りました。次は40×40のミシンナリーシェッド(農具及び操機類置き場)を建て、1英町半(約6反歩)の養魚池(水深4、5呎)を掘り、池の一方に和洋折衷の住宅を建て、池の向こう側には高さ一百呎の富士山を築きその麓には池に沿うて小松を植えて、三保の松原(静岡市清水区の名勝)とし、池には鯉等を飼う予定です。

190英町の中、100英町は松林の儘に置き、残りを牧場、果樹園、野菜花卉類の試作場に宛てます。これは私の計画ですが、果たしてこれだけ出来るか。帰するところは私の健康次第です。

近頃私の体重は急激に減りました。食欲も睡眠も申し分ありません。私は白米食を廃する考えから日本食料を約1年前から全廃しましたが、醤油だけは常用して居ります。目下何かと多忙なため、休む暇もありません。昨日も苗床の灌水で帰宅したのは夜の7時過ぎ。お蔭で今朝も疲れて居ります。永からぬ余生、少しの暇もおろそかに出来ません。今の一日は若い頃の一週間にも匹敵しましょうか。こんな都合で少しの余裕もありませんが、希望に満ちた渡米当時のような感じです。

訪日等はいつの事やら、或いは夢で終わるかも知れません。これが私の持って生まれた運命というものでしょう。私は悲観どころか、幸福者と思います。私はいま市中に住んで居りますが、電線電話がつき次第、いま住んでいるトレーラーを引いて畑に移ります。郊外7哩(マイル)の地点で住家は極まばら。一番近くので1哩半程です。山中で老人の一人住まいは危険ですが、これに対処する設備は十分しますから心配する程の事はありません。

この国は北部が近年稀な寒さで、数百人の死者を出しましたが、南部フロリダはまず、暑からず寒からずで申し分ありません。ただ雨が少ないので百姓は困って居ります。過去数年、私の考えが色々変わりましたが、これが最後と信じます。私も出来るだけ長生きしたいと思います。せめて百までも。先ずはお礼まで。


1961年1月25日

玲さん、暇つぶしに少し旅行したいと思う。行く先は未定だが、まず手近な西インド諸島、中央アメリカから始めたい。何十とあるあまり恵まれぬチッポケな国々だ。皆ラテン系で英語が通用せぬ。スペイン語の話せぬ私には何かと不便だろう。

故障さえ起らねば、出立は3月中旬ごろだ。3月1日にこちから通告するまで手紙くれるな。書く事もないから、これで止める。

1961年2月5日

〈くしゃみで上の歯がはずれる〉

美さん、手紙有難う。私は例の万年風邪の外は別に変りはありませんが、フロリダもこの冬は温度が少し低いようですが、寒いという程ではありません。

私の歯もようやっと治りましたが、やはり元のままの方が少し不自由でも食物の味があるようです。何より困るのは嚔(クシャミ)をする毎に上歯が弛んで飛び出すんです。私のクシャミは人並みはずれ大きいので、隣近所へ聞こえるのです。だからクシャミが出そうだと、急いで上歯を取り外すのです。時には三、四回も続け様に出ます。

近頃、宮津(京都府)へ行きましたか。私は時々思うのです。私がこちらへ来なかったら今頃はどうなっているだろうと。昔私は大きな夢を見ていました。実はその資金稼ぎに渡米したのです。三年ほどまじめに働けば、一千円位持ち帰れると聞いて居ました。その頃の一千円は大金でした。三年は夢のように過ぎました。借金(渡航費三百円)は辛うじて返済しましたが、懐は空でした。あまつさえ意中の人は去りました。(注1)

(注1)渡米時、助次は3年働けば借金は帳消しになり、ボーナスももらえるとスポンサーに言われたが、スポンサーが急逝し約束は反故になってしまい、帰るに帰れなくなった。

美さん、人間の運命程、不可解なものはありません。喜んでいいのか悲しんでいいのか。私には解からないのです。三月の中旬頃、旅行に出ます。人間は生き物、財産は浮物です。私が不意に死んでも無一物になっても、明子が安心して学校へ行けるようにしておきたいのです。

別に変った事もありませんから、これで止めます。くれぐれも気を付け風邪をひかないようにして下さい。私は今、電気毛布を使って居ります。軽い上、温度が高くも低くも出来るので至って便利です。私が来年日本に帰ったら一枚、買って上げたいと思います。今は何もかも日本製が多いのでうっかりこちらで土産物を買えません。さようなら。

1961年2月23日

〈村の人からはケチン坊、親不孝者と罵られ〉

玲さん、16日付け手紙受け取った。就職は思わしくないし、結婚は気が進まぬ。あんたの立場は私にはよく解るが、どちらかをとるより外ないと思う。前にも一度言ったようにお母さんの真意はあんたの結婚よりは、人の噂を懸念していると思う。

あんたが間違った事をせぬ以上、心配する事はない。親が無理解の場合は確固たる決心を要する。あんたはもっと強くならねばならぬ。私は渡米前の事を思い出す。私は家運挽回に熱中した結果、親からはうとまれ、村の人からはケチン坊だ、親不孝者だと罵られた。

馬鹿な奴、今に見てろと、私は歯を喰いしばって堪え忍んだのだ。無学な者が大成をした例は少なくない。

〈新日米新聞社の加藤氏が来訪〉

私の旅行は今のところ、ちょっといき悩んでいる。行く先の独立国とは名のみで、ろくに車道もなく未開国だ。内乱だ、革命だ、絶えず騒いでおり、かなり危険だ。観光団に加わって行けば安金だが、見る物は首府とか、港とか、限られている。私の見たいのは原住民の状態や太古文明の跡なのだ。

昨日、思いかけない三人の同胞の訪問をうけた。夕方、暑いので素裸でカウチに寝転び新聞を読んで居たときだったので驚いた。

同胞に会うのは全く久し振りで、つい英語で話す。なれぬ日本語よりはこの方がずっと楽だ。一人は加州羅府新日米新聞社の主幹加藤新一氏だ。日米修交百年祭を記念する全米日系人発展紳士録をこの新聞社より発行する事になったという。ついては、(大和コロニーのリーダーだった)酒井醸氏の写真を掲載したいので暫時、拝借が願いたいという。幹男(甥)の英語の先生の酒井睦子さんは酒井氏の親せきだろう。写真は複写したのち間違いなくお返しする。幹男に依頼してくれないか。至急を要する。私の旅行はかなり後になると思う。

1961年2月26日

明ちゃん(姪)、米治(弟)の写真ありがとう。私は永い間見つめた。涙がとめどなく落ちた。涙でぬれたリンゴのような頬。彼は泣いて私に取りすがった。約五十年前の昔となった。「泣くんじゃない。ニイ(兄=森上さんのこと)は直き戻って来る」。こう言ったのが永遠の別れとなった。

私は彼を思う。毎日、思うのだ。せめて生きて居てくれたらあんた方ももっと幸福だろうし、私もこうは淋しい思いはしなかっただろう。

暫く暖かかったが、また急に冷えだした。北部地方は雪解けの洪水で死人さえ出る騒ぎだ。二月も終わった。桜の花も直ぐだ。京都の騒ぎが想われる。私の旅行は少し延びる。多分三月の中旬頃になるだろう。私は別に変りはない。案じていた足の具合もずっと好い。

暇はあるが、クック(料理)が嫌いでたまらぬ。明ちゃんがおまんまが上手に炊けるようになったら来てもらおうか。


1961年3月4日

明ちゃん、手紙有難う。日本で学生向けのテープレコ-ダーはいくら位するか?こちらより日本の方がずっと安いと思う。テレビは日本の方が高いようだ。こちらでは自家用洗濯器(機)の使用がだんだん減って行く。都会に住む者の大半は共同洗濯所(コインランドリー?)へ行く。25セントか、50セントを入れてボタン一つ押せば、10听(ポンド)までの洗濯物は一時間そこそこできれいに洗い、何回もゆすぎ、雨天の日でもちゃんと干してくれる。後は家に持ち帰ってアイロンをかけるだけだ。

何万円も出して機械を買う必要はない。京都あたりでもこんな場所は沢山あると思っていた。人口1万余りのデルレーでも10ヵ所以上ある。一つ京都で始めるか。儲かる事、請け合いだ。今でも相変わらず暑い。涼しい風が海から吹いてくるのでそう苦しくない。新学期は何時から始まるんだ。かなり間がある事と思う。ゆっくり休むんだ。

玲子さん、今度、在米日本人の記事を書く(注2)に就いて参考に、あんたや明子に送った在フロリダ日本人に就いての新聞や雑誌の切り抜き、捨てずにあったら全部至急エアメールで送ってもらいたい。

(注2)新日米新聞社の加藤氏より、「フロリダの日本人」について記事を依頼されたと思われる。


1961年3月8日

玲さん、酒井醸氏の写真今朝受け取った。有難う。まだ三月上旬というのに、この頃の暑さは六、七月頃の暑さだ。京都もかなり温かくなり、桜の花もほころび始めた事と思う。日本の好景気に対してこちらはかなり深刻な不景気で、六百万人近い失業者は政府の補助で辛うじて毎日を過ごして居る。日本も連年の好景気に油断せず、しっかりベルトを締めてもらいたい。好かった後は悪くなるものだ。

あの問題の風流夢譚(注3)は内容はほぼ想像つくが、念のため読んで見たい思う。あったら送って貰いたい。

(注3)雑誌『中央公論』1960年12月号に掲載された深沢七郎の小説『風流夢譚』のこと。内容が不敬だと騒動になる。

避寒客も大半が去り、ずっと静かになった。

二伸

この頃はレッドスナッパー(日本の赤タイの一種)のシーズンになり、時々店から買って新米の御飯にタイのさしみ、それに大根おろしをつけてつい食い過ぎる。五十年前の京都の御飯はおいしかったが、この頃はどこか知らんが、米だけはこちら産が日本米よりずっと好い。日本の輸入米の大半はアメリカ産だ。


1961年3月27日

〈思い出す小学校のころ〉

小学校卒業の日を思い出す。78名の同窓生の顔が一々目に浮かんでくる。その後、会ったのは僅か数名だ。再び会えぬと思うと目頭が熱くなる。校舎は新築されて、昔の面影はない。心ばかりの寄付で宮津市長から鄭重な感謝状が来た。

どうした事かこの頃はとんと夢をみないが、夢位不可思議なものはない。突然夢に現れた満寿ちゃんという近所の娘さんは、60年も昔、私より一つ下で学校は違っていたが、帰りはよく一緒だった。私は満寿ちゃんが大好きだった。

満寿ちゃんは村一、二の金持ちの娘さんで、あどけない人なつっこい子だった。16の時、風邪がもとで死んでしまった。

京都も日一日と観光客で賑う事だろう。アメリカからの観光団も4月上旬、出かける。ジェット機で桑港、羅府から12時間。25年後には、どうなるのだろう。長生きしたいものだ。若い頃無理すると、年取ってから必ず報いが来る。無理せぬようにしてくれ。


1961年4月17日

玲さん、お便りありがとう。

京都で間借りはいくら位です。ホテルはとても高くて手に負えぬとの事。私が帰国しても、滞在は一ヶ月位で京都と宮津に一週間ずつの予定だが、少しは延びるかも知れぬ。何もかも帰った上だ。10月末の観光団の一員として行けば万事好都合だが、寒さに弱い私には永居は出来ぬ。やはり夏に行った方がよさそうだ。

準備はほとんど出来た。行来の手続きが中々面倒だ。友人たちが帰化を勧める。一時期に比べると容易に出来そうだ。私が帰化すると、あんた達の渡米は容易だ。ところであんたの英語はどの位の程度だ。あんたは中々難しい言葉を知って居る。

まぁ、暇があったら習うに限る。なにも難しい事を習う必要はない。普通の会話が出来れば十分だ。今アメリカでは語学熱が盛んだ。五十歳、六十歳の老年組(男女共学)の夜学へ行く。別に書く事もないのでこれで止める。


1961年5月1日

〈車の外装を塗り替えた〉

玲子さん、近頃とんと便りがないが、丈夫か。先週マイアミに行き、(同郷の)山内君宅で二泊した。永い間、会わなかったので話は尽きなかった。山内君達は来春頃帰国し、故郷の峰山か宮津に住むとの事だ。息子の家族もあり、孫も一人あるが、年を取るとやはり故郷が恋しくなるらしい。

三年前買った、あのちっぽけなカーのペイントが少しあせたので、今度マイアミで塗り直した。以前はアイリッシュグレーだったが、今度はアイボリーホワイトで、見違える程きれいになり、ニューカーのようだ。女の人のお化粧と同じだ。

マイアミへ約60哩。日本の30里近く、乗用車ならこれまで片道1時間半そこそこかかったが、今度出来た新道は踏切が一つもないのでずっとはやく行けた。

毎年の事だが、夏になると、何もかも大安売り。衣類等シーズン外れは3分の1位で買える。マイアミに行ったついでに小型のヴァカムクリーナー、日本では何というか知らぬが、電気掃除器を買った。普通30弗だが、半値の15弗で買った。

旅行の準備は出来たが、実行は何時になるか。行く気になったり、行きたくなくなったり、もろもろの気分で変わる。行く先へ、これという定まった目的がないためだろう。優しい手紙でも来ると急に行きたくなり、待っても待っても便りがないと急に嫌になる。何故か自分でも解らぬ。私のいつわらぬ心境なのだ。今日はメーデー、京都の桜も散り果てた事と思う。

こちらでは水瓜やメロンが出始めた。雨がないので味は上々。月の中旬は出盛りで値もずっと安くなろう。

追伸:日本へ行ったら洋風のホテルに泊まる。私は脚が曲がらんので座る事は無論、あぐらもかけぬ。京都滞在は一週間でなく一ヵ月位になろう。何もかも行って見なければ解らぬ。ひょっとすると、アメリカへ帰るのが嫌になるかも知れぬ。万一に備えて京都郊外の住宅地を、銀行を通して調べている。

(敬称略)

第19回 >>

 

© 2019 Ryusuke Kawai

家族 フロリダ州 森上助次 アメリカ合衆国 ヤマトコロニー(フロリダ州)
このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

第1回から読む >>

詳細はこちら
執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

様々なストーリーを読んでみませんか? 膨大なストーリーコレクションへアクセスし、ニッケイについてもっと学ぼう! ジャーナルの検索
ニッケイのストーリーを募集しています! 世界に広がるニッケイ人のストーリーを集めたこのジャーナルへ、コラムやエッセイ、フィクション、詩など投稿してください。 詳細はこちら
サイトのリニューアル ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。 詳細はこちら