ディスカバー・ニッケイ

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真珠湾攻撃で中断された大学生活(英語)

(英語)人生の中でこれほどショックを受けたことはありませんでした。(真珠湾攻撃の第一報が入った)その時私はシェリーロス寮というオレゴン大学の寮にいました。私は階段を降りて行きラジオを聞きました。当時はテレビなどありません、あるのはラジオだけです。友達やクラスメートは私に何と言っていいのかわからず、皆静まりかえっていました。本当にひどい体験でした。でも2人の友達が私のところにやって来て、私を抱きしめ「サム、君は敵なんかじゃないってことは僕達がわかっているから」と言ってくれたことで、張り詰めていた空気が緩みました。

1942年のオレゴン大学の話になりますが、せめてスプリングターム(春学期)―オレゴン大学はセメスター制(2学期制)ではなく、ターム制(3学期制)なので―だけでも終えるように、私は学生達の中心となって主張しました。私は(大学の)総長のところへ行き、私達がスプリングタームを終えられるようデウィット中将に掛け合って欲しいと頼むと、総長は「できません。それは愛国心にとても反する行為ですから」と言うのです。これは衝撃的でした。だから私は今ではオレゴン大学をサポートしないのです。そして結局私達はスプリングタームを終えることができませんでした。


大学(colleges) 差別 対人関係 オレゴン大学 第二次世界大戦

日付: 2005年12月8日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

サム・ナイトウ氏(1921年生まれ)はオレゴン州ポートランドにあるNaito Corporationの社長・代表取締役です。1975年、ポートランド国際空港を拠点にオレゴン産の製品・生産物を取り扱った店「Made In Oregon」を設立しました。以来Made In Oregonは店舗を拡大し、ポートランド、サレム、ユージン、ニューポートに10店舗あります。サムの父は1917年頃神戸の近くの小さな町からイギリス経由でアメリカへ移住しました。一家は、1921年ポートランドで輸入業を始めましたが、第2次大戦勃発を機に人種差別などを経験しました。1942年、当時オレゴン大学の学生だったサムは、「非愛国者」として春学期の途中で退学を余儀なくされます。ナイトウ一家はユタ州のソルトレイク市へ移動することを決意し、親戚らと合流しました。一方、サムは仕事をしながらユタ大学に通い、そこで将来の結婚相手と出会いました。1945年、ニューヨークのコロンビア大学へ転入・卒業。戦後は、陶磁器の卸業社Norcrest China Co.を設立し、イギリスやアメリカ占領下の日本からボーンチャイナや食器類などを輸入しました。(2005年12月5日).

カズム・ナガヌマ

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