ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/431/

ポートランド空港にオープンした「Made in Oregon」の店(英語)

(英語)私は「ポートランド空港に必ず店を開きたい」と考えました。ギフトショップをです。でも空港にはすでにギフトショップがあったので、新しく店を開くためのスペースを貸してもらえませんでした。そこで私は色々な友達に連絡をしました。その中の一人にPort of Portland(ポートランド港)委員のパンチ・グリーン(アラン“パンチ”グリーン1925-2001)がいました。私はグリーン氏のところに行き、店を開きたいと話すと、彼に「それはできない。店を開くのは無理だ」と言われました。委員であるグリーン氏は(空港や港に関する)様々なことを統轄していて・・・その時私は突然ひらめき「それならMade in Oregon(オレゴン製)の製品を売るというのはどうですか?」と提案すると、グリーン氏は「そうか!その手があったか!でも・・・販売できるほどMade in Oregonの物はないと思うが」と言いましたが、私は「十分な製品の数を見つけられると思います」と言いました。こうして私は「Made in Oregon」という、とても小さなお店を開くことができたのです。

「Made in Oregon」というアイディアはどこから生まれたかって?それは単に「Made in Japan」「Made in Hong Kong」という具合に「Made in Oregon」と出てきただけです(笑)。それを聞いてグリーン氏は店を開けるだろう言ったわけです。そして私は空港に店を開くことができました。

人々は、空港内はたくさん人が往来していることを、意識していません。でも人の往来こそ(商品を売るのに)欠かせないことだと、私は理解していました。小売業を営むには、集客力が必要です。(店に)人が来てくれなくては話になりませんから。だから私達の店は全てモールに入っているのです。モールに来た人が立ち寄る機会が増えるからです。私達の店は衝動(買いをする)店です。私達は「衝動的」と言っていますが、なんとなく店に立ち寄って、気に入ったものがあったら買う、という店なのです。わかりますか?つまり日曜大工用品のように、家で必要なものを目的をもって買いに行く店とは違うのです。空港に小さな店を開いてから私達の事業は素晴らしい展開をしていきました。店のスペースも大きくなり、モールに店を開けるようになったのです。


アメリカ Made in Oregon (店) 小売店 オレゴン州

日付: 2005年12月8日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

サム・ナイトウ氏(1921年生まれ)はオレゴン州ポートランドにあるNaito Corporationの社長・代表取締役です。1975年、ポートランド国際空港を拠点にオレゴン産の製品・生産物を取り扱った店「Made In Oregon」を設立しました。以来Made In Oregonは店舗を拡大し、ポートランド、サレム、ユージン、ニューポートに10店舗あります。サムの父は1917年頃神戸の近くの小さな町からイギリス経由でアメリカへ移住しました。一家は、1921年ポートランドで輸入業を始めましたが、第2次大戦勃発を機に人種差別などを経験しました。1942年、当時オレゴン大学の学生だったサムは、「非愛国者」として春学期の途中で退学を余儀なくされます。ナイトウ一家はユタ州のソルトレイク市へ移動することを決意し、親戚らと合流しました。一方、サムは仕事をしながらユタ大学に通い、そこで将来の結婚相手と出会いました。1945年、ニューヨークのコロンビア大学へ転入・卒業。戦後は、陶磁器の卸業社Norcrest China Co.を設立し、イギリスやアメリカ占領下の日本からボーンチャイナや食器類などを輸入しました。(2005年12月5日).

ジョージ・アズマノ

オレゴン州ポートランドのダウンタウン(英語)

アズマノトラベル創設者

ジョージ・カツミ・ユザワ

真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

トシオ・イナハラ

自己アイデンティティは日本人の子孫 (英語)

血管外科医(1921年生)

二宮 正人

初期の日本人移民の職業

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)