日系仏教徒らの戦争
戦後65周年特別企画として『仏教タイムス』(2010年7月)に紹介された連載記事から、3人の日系人仏教徒ならではの戦中・戦後体験記を紹介します。
このシリーズのストーリー
第3回 母を殺した国の兵として -水野ハリー義徳さん-
2010年10月28日 • 長島 幸和
第二次大戦中、多くの日系人が「敵性外国人」として強制収容されたが、同時に、多くの日系人が米国の兵士として戦場に赴いた。強制収容所に親を残したまま、そこから志願して兵役に就いた日系の若者たちもいた。彼らは、その屈折した心情を晴らすかのように、戦場で数々の殊勲を上げたが、第二次大戦後、米陸軍の軍属(アーミー・シビリアン)として日本で働き、軍事情報部(MIS)部員として朝鮮戦争に従軍した水野ハリー義徳さん(83)=ユタ州ビンガム出身=の場合、屈折の度合いはさらに大きかったのではな…
第2回 自問の中、仏教と出会う -長谷川良子さん-
2010年10月21日 • 長島 幸和
第二次大戦時の日系人強制収容は、米国史における大きな「汚点」として、1988年に当時のレーガン大統領が謝罪、収容された人たちには一人2万ドルの補償金が支払われたが、一方で、日本舞踊や詩吟、そして各種の文芸まで、収容所の中でさまざまな日本文化が育っていったのも事実だった。収容所が大勢の人たちに、日本文化との「出会いの場」となったのだ。仏教と出合った人もいた。後に曹洞宗北米別院禅宗寺の婦人会会長を務める長谷川良子さん(86)も、そんな一人だった。 戦争が始まった年の春、長谷川…
第1回 ツールレークから広島へ -安孫子洋さん-
2010年10月14日 • 長島 幸和
今年は終戦から65年。戦争の記憶は年々風化の一途をたどるが、第二次大戦中に「敵性外国人」として強制収容所での生活を余儀なくされた日系アメリカ人や、まさにその強制収容所から兵役に志願した日系二世にとって、戦争の記憶はいまだに鮮明だ。その中には多くの仏教徒がいたが、そこには、仏教徒ならではの「戦争」や「戦後」があった。 * * * 西本願寺ロサンゼルス別院の現輪番、安孫子洋さん(69)=ロサンゼルス出身=が強制収容所に送られたのは、満一歳のころだった。母親と2歳半年上の兄ととも…