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根川 幸男

(ねがわ・さちお)


1963年大阪府生まれ。サンパウロ大学哲学・文学・人間科学部大学院修了。博士(学術)(総合研究大学院大学)。移植民史・海事史・文化研究専攻。ブラジリア大学文学部准教授を経て、現在、国際日本文化研究センター特定研究員。同志社大学、滋賀県立大学などで兼任講師。主要著書:『「海」復刻版』1〜14巻(柏書房、2018、監修・解説)、『ブラジル日系移民の教育史』(みすず書房,2016)、『越境と連動の日系移民教育史——複数文化体験の視座』(ミネルヴァ書房、2016。井上章一との共編著)、Cinquentenario da Presenca Nipo-Brasileira em Brasilia.(FEANBRA、2008、共著)

(2023年1月 更新)


この執筆者によるストーリー

ブラジルの日本人街
第11回 東洋街形成と一世リーダーたち(1) -田中義数-

2008年2月21日 • 根川 幸男

世界のどの移民史の局面でも、エスニックタウン形成の初期には、強力な指導力をもった大物リーダーが存在した。サンパウロ東洋街創設にかかわった日系大物リーダーといえば、まず思い浮かぶのが田中義数(1909~1979)と水本毅(1920~1989)であろう。 すでに書いたように(第6回「東洋街の形成と発展①」)、1953年、シネ・ニテロイがリベルダーデ広場からガルヴォン・ブエノ通りを少し下ったと ころ(現在の大阪橋の位置)に開業したことによって(写真11-1)、このエリアに日…

ブラジルの日本人街
第10回 (番外編2) ロンドリーナ-日系文化ムーヴメントとマツリダンス-

2008年1月10日 • 根川 幸男

最近ブラジルでは、「日系文化」や「新日系文化」という言葉が邦字紙を中心に使われだした。この言葉は、「『日本文化』をベースにブラジル風にアレンジした文化」という意味で使われているが、「日本の日本文化」から、自らの「日本文化」を「日系文化」として自覚的に差異化し、多文化的な「ブラジル文化」を構成する一要素として位置付ける姿勢を示している。 現在、その日系文化プレゼンスでもっとも熱いと思われるエリアが、北パラナ(パラナ州北部)である。戦前から多くの日系人が入植し土地を開拓してき…

ブラジルの日本人街
第9回 東洋街の形成と発展(4)-日本企業ブラジル進出時代-

2007年11月2日 • 根川 幸男

70年代中頃のトーマス・デ・ゴンザーガ通り―派手な電飾、クラブの入口から千鳥足でよろけ出すスーツ姿の日本人男性たち、それを見送る化粧の濃いホステスたちの嬌声―東洋街には、盛り場としての「夜の顔」があった。 前回までに述べたように、戦後のリベルダーデ地区への日系人口の再集中と東洋街の形成については、1)1953年7月のシネ・ニテロイ開業、 2)1964年4月のブラジル日本文化協会センター設立、3)1975年9月の地下鉄リベルダーデ駅開通という三つの契機があった。さらにこれら…

ブラジルの日本人街
第8回 東洋街の形成と発展(3)-新しい「伝統」の創成-

2007年10月11日 • 根川 幸男

週末の東洋街はこのエリアを訪れる人たちと車でごったがえす(写真8-1)。東洋市を訪れる観光客、東洋食品や製品を扱うスーパーの買い物客、日・ 中・韓の各料理店で食事を楽しむ人びと、なんとなく駅前にたむろするJ-POPファンの若者たちなど、さまざまである。また、このエリアは、4月の花祭 り、7月の七夕祭り、12月の東洋祭り、大晦日の餅つき大会というエスニック・イヴェントの中心でもある。これらのイヴェントのある日、リベルダーデ広場 はお祭り広場と化す。 前回述べたように、50年…

ブラジルの日本人街
第7回 東洋街の形成と発展(2)-地下鉄リベルダーデ駅の開設-

2007年9月6日 • 根川 幸男

1950年代の前半から、シネ・ニテロイをはじめとして四つの日本映画専門館がリベルダーデ地区に営業し、「昼なお暗き」と形容されたガルヴォン・ブエノ通りにネオンがまたたくようになった。また、1964年には、サン・ジョアキン通りの坂下、ガルヴォン・ブエノ通りとの交差点に、サンパウロ日本文化協会(ブラジル日本文化協会の前身)センタービル(以下「文協ビル」)が竣工する。この二つの契機によって、リベルダーデ広場からガルヴォン・ブエノ通りを経てサン・ジョアキン通りまでの空間が、一つのまと…

ブラジルの日本人街
第6回 東洋街の形成と発展(1)-シネ・ニテロイと文協の誕生-

2007年8月9日 • 根川 幸男

サンパウロ地下鉄南北線のリベルダーデ駅を出ると、派手な看板をかかげた飲食店や日本・中国・韓国の食品・食材を売るスーパーマーケットがひしめく一角に 出る。東洋街の中心リベルダーデ広場だ(写真6-1)。ここから南に向かってガルヴォン・ブエノ通りが走っており、夜になると商店のネオンとともに赤い ポールのすずらん灯が街路を照らす。かつて世界最大の日本人街と呼ばれた東洋街は、サンパウロ市のほぼ中心に位置するリベルダーデ地区の商業・観光エリア であり、リベルダーデ広場から、ガルヴォン・…

ブラジルの日本人街
第5回 ピニェイロス地区-斜陽の日本人街-

2007年6月7日 • 根川 幸男

サンパウロ市とその周辺には、「日本人街」と言われたいくつかのエリアがあった。戦前から戦中にかけて、いわゆる「コンデ界隈」と呼ばれたエリアが日本人 街としてはもっとも大きかったが、ついで日系人口が集中していたのはピニェイロス地区であり、200人ほどの日系人が居住していたとされている(半田, 1970, p.573)。その次が市立中央市場の周辺で、通りの名を取ってカンタレーラ街と呼ばれていた(地図5-1参照)。 ピニェイロス地区は、サンパウロ市の中心から約7キロで、古くか…

ブラジルの日本人街
第4回(番外編)イグアス移住地-日本文化と匠の里-

2007年5月17日 • 根川 幸男

今年2007年の1月から2月にかけて、パラナ州北部とパラグアイを旅した。この連載の主旨は、ブラジルの日本人街の歴史と現在の姿を伝えることだが、今回は番外編として、筆者が訪れたパラグアイの日系移住地イグアスについて筆者の印象をまじえて書いてみたい。 イグアスの大瀑布で有名なフォス・ド・イグアスはパラナ河をわたる一本の橋でパラグアイとつながっている。この「友情の橋」を渡ると、パラグアイ第二の都市シウダー・デル・エステである。中国系移民(主に台湾系)が多いこととフリーポートであ…

ブラジルの日本人街
第3回 コンデ界隈-ブラジル最初の日本人街(3)-戦争の嵐と戦後の混乱、そして復活へ

2007年4月27日 • 根川 幸男

ブラジル最初の日系教育機関である大正小学校がサン・ジョアキン通りに移った後も、コンデ界隈の日本人街は発展し続けた。1930年代後半から1940年ごろまでが、その全盛期であったといわれる。 このころのサンパウロ市の邦人社会も、1914~15年時代のまずしさから、おいおいぬけだして、コンデの住民たちも「坂を上がって」コンセリェ イロ・フルタード全盛時代となり、コンデ・ド・ピニャール、タバチングェーラ、イルマン・シンプリシアーナへとのびていった(半田, 1970, p.572)…

ブラジルの日本人街
第2回 コンデ界隈-ブラジル最初の日本人街(2)-大正小学校の誕生

2007年4月5日 • 根川 幸男

戦前のブラジルの日系教育機関は多くが日本人会や父兄会を経営基盤としていたので、当然日系人が集中する地域に開設された。ここでは、ブラジル最初の日本人街である「コンデ界隈」(地図2, 3, 4参照)に創設された大正小学校と当時の状況について概観しておきたい。 大正小学校は、ブラジル最初の日系教育機関としてこのコンデ界隈の中心、コンデ・デ・サルゼーダス通りに創設された。日系住民たちがこのエリアに集 まってきた理由はさまざまだが、子弟の教育問題も原因の一つであった。実際、都市…

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